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尾張名所図会を巡る

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2009年 03月 05日

火高地古道(ひたかじのふるみち)

『尾張名所図会』の火高地古道
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 裁断橋の東、築出町(つきだしまち)の鳥居のあたりのことをいう。昔、日本武尊が氷上(ひかみ)の宮簀媛命(みやずひめのみこと)のもとへ行く時に使った古い道である。また、このあたりに家を作って住むと神罰の祟りがあるといわれている。
 『寛平縁起』の日本武尊の歌に「奈留美良乎 美也礼波止保志 比多加知尓 己乃由布志保尓 和多良部牟加毛 (鳴海浦を 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも)」とあるのはこの古い道のことである。


築出町の鳥居の歴史的な位置    『尾張国町村絵図』「熱田」の一部
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 中央から左に流れるのが精進川で、それに架かる橋が裁断橋である。裁断橋の右側が築出町で、『絵図』の下にあるのが築出町の鳥居である。


『尾張名所図会』の氷上神社
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 氷上神社は日本武尊が宮簀媛命のもとへ訪れた時の場所とされている。




現在の築出町の鳥居(推定)    撮影場所
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 現在、火高地古道があった場所を特定するのは難しい。『尾張名所図会』に築出町の鳥居のあたりとあるので、その場所を推定すると上の写真よりやや西の現在の裁断橋跡があるあたりではないだろうか。この写真の位置は「伝馬町一里塚」と案内板にある場所である。(本来の一里塚は、おそらく国道1号線の新堀川に架かる新熱田橋付近と思われる。)
 ちなみに火高地古道の「火高」とは現在の名古屋市緑区大高町のことで、この道は日本武尊が東征の命を受けて、伊勢から尾張の氷上(火高)へ向かう途中に通った道である。古代この付近まで海が来ていたので、干潮時に歩いて氷上まで移動したと思われる。しかし、古代の海岸線は干潮時でもこのあたりが陸になったのか疑問が残る。江戸時代に熱田から大高まで行こうとすると、海岸線の影響で東海道を通り鳴海まで行き、そこから大高へ行くか、近道として新しくできた笠寺あたりから大高へ行く「知多郡道」があった。そのように考えると、古代にこのあたりにあった火高地古道が干潮時に陸地になったのか不明で、この古道がどこまで史実の話か分からない。他に文献など調べていないので、詳しい方に委ねたい。

『なごやの古道・街道を歩く』より



現在の氷上姉子神社(ひかみあねこじんじゃ)     氷上姉子神社の位置
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 祭神は宮簀媛命。仲哀天皇4年、尾張氏の館趾(現在の元宮)に創建し、持統天皇4年(690)に現在の地に移った。
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現在の元宮
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宮簀媛命宅跡
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明治時代に出来た「知多郡新道」の道標
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 この道標は明治21年(1888)に建てられたもので、明治時代に入ると知多への近道として新道ができた。明治三十六年の『熱田築港図』を見ると、この道標は以前、ここより南西の位置にあったと思われるが確証はない。これも詳しい方に委ねたい。


上の道標がある神明社    神明社の位置
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by nitibotuM | 2009-03-05 21:36 | 尾張名所図会 | Comments(0)


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