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尾張名所図会を巡る

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2009年 02月 17日

玉龍山 海国寺(ぎょくりゅうざん かいこくじ)

『尾張名所図会』の海国寺    海国寺の歴史的な位置(地図の中央下)
 布曝女町にあり、臨済宗妙心寺派の寺院である。天文八年、叔榮(しゅくえい)が開山する。叔榮は加藤図書助順盛(かとう ずしょのすけ のぶもり)の一族なので、海国寺は加藤家(加藤家は織豊時代ごろに熱田で勢力を伸ばした一族)の菩提所である。叔榮の弟子で海国寺二世の仁峯(にんぽう)は順盛の三男である。その他に忠岳和尚(叔榮の弟子)・潔堂和尚(けつどう)なども住持した。


 潔堂は奥山佐渡守(奥山盛昭(おくやま もりあき))の弟である。奥山盛昭の妹(もしくは姉)は佐久間盛政(佐久間玄蕃允(さくま げんばのじよう))に嫁ぎ、女子一人(虎姫(とらひめ))を産んだ。佐久間盛政が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に味方して、秀吉によって斬首されると、秀吉は奥山盛昭の妹を新庄法印(新庄直頼(しんじょう なおより))のところに再び嫁がせた。そして、右近美濃守らを産んだ。また、佐久間盛政の娘(虎姫)も秀吉の命によって、中川修理大夫秀成に嫁いだ。中川秀成の父、中川瀬兵衛は賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政の攻撃により戦死した人物であった。つまり、虎姫は父を仇とする家に嫁いだことになる。これは秀吉が佐久間盛政によって攻め落とされた怨みを打ち消すために行ったということである。
 新庄美濃守が使者として名古屋を訪れた時に海国寺に参詣したのもこういった縁があるからだと『厚覧草』(あつみぐさ)は伝えている。



 『名古屋市史』には次のようにある。
 開山は叔榮、二世が仁峯、四世は潔堂(『張州雑誌』には開山 叔榮、二世は仁峯、三世が潔堂、四世が高岩となっている。)
 また、七世まで紫衣を許された寺院であった。本尊は釈迦牟尼仏像。



 
現在の海国寺    海国寺の位置
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山門と六地蔵
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境内


 臨済宗妙心寺派の寺院。海国寺には琉球人の墓がある。墓石に「琉球麻氏渡嘉敷(中略)江戸ヨリ帰リ尾州宮駅ニテ病ミ没ス」と刻まれている。寛延二年(一七四九)正月十二日に病死したことが併記されている。麻氏は第九代将軍の徳川家重が将軍職を継いだときに慶賀使として江戸に来た帰りに病死し、海国寺に葬られた。『小治田之真清水』(おわりだのましみず)には、渡嘉敷親雲上が熱田宿本陣にて病死して海国寺にて葬列を営み断夫山の北山の三昧(さんまい 墓地のこと)に埋葬し、石碑を建てたとある。

 『熱田区誌』より

by nitibotuM | 2009-02-17 21:31 | 尾張名所図会 | Comments(0)


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