『尾張名所図会』の林桐葉宅跡
市場町の東にあり。(市場町の位置は
『名古屋市史』地図「(一一)熱田神領字入図」を参照)俗称を林七左衛門といった。芭蕉の門人で桐葉と名乗り、また、臨高や元竹とも称した。芭蕉との交友については暁台(きょうたい)の『幽蘭集』に詳しく記されている。同門には丈草(じょうそう)・越人(えつじん)・杜国(とこく)・荷兮(かけい)・野水(やすい)・露川(ろせん)・知足(ちそく)などがいる。
貞享元年(一六八四)、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で桐葉宅に寄ったとき次のように詠み、そこからも二人の親交の深さが分かる。
旅亭桐葉の主、心ざし浅からざりければ、しばらくとゞまらんとせしほどに
此海に草鞋(わらんじ)捨てん笠しぐれ 芭蕉 『熱田三歌仙』
富春山 妙安寺の境内にある芭蕉句碑(時雨塚)
妙安寺の位置正面に芭蕉の詠んだ上の句が刻されている。この碑は布磧らによって、芭蕉の死後九十一年経った天明四年(一七八四)に建てられたものである。元々は神宮寺(熱田神宮の境内にあった)が明治元年(一八六八)の神仏分離令によって廃寺となったので、妙安寺に移された。熱田には蓬莱伝説(亀の甲羅の上にある山で、不老不死の薬を持つ仙人が住む)があり、この伝説からこの句碑は亀の上に建っておりユニークである。
現在の林桐葉宅跡
林桐葉宅跡の位置桐葉宅は北端が辻ヶ花町(八剣宮南の東西の道)で、東西は布曝女町(そぶくめまち)と市場町、南端は魔の樋合(まのひあい)と言う市場町と布曝女町を南で結ぶ小路まで及ぶ広大な敷地であった。
また、桐葉は晩年、書道に熱中し俳諧からは遠ざかった。正徳二年(一七一二)に五十九歳で没する。
『史跡 あつた』 『熱田区の歴史』 『熱田区誌』 教育委員会 案内板 より