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尾張名所図会を巡る

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2012年 05月 05日

妙光山本遠寺(みやうくわうざん ほんをんじ)

『尾張名所図会』の本遠寺
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 白鳥の南の田中町にある。日蓮宗で京都本遠寺の末。日蓮上人の直弟、九老僧のうちの日證が応安年中に建立し、康暦二年の八月一日に寂した。年は百二十歳ほどであった。勅命により本乗阿闍梨の号が贈られた。紹巴(じょうは)の『富士見道記(ふじみみちのき)』に永禄十年八月七日に法華堂本遠寺で連歌の会を張行(ちょうぎょう)したと記されている。
 本尊 釈迦の木像。脇壇に鬼子母神・日蓮の像、及び十羅刹女・日朗・日證の影像を安置する。昔、日蓮が東国より帰洛の時に、百日読経をしたお堂を法華堂として、熱田御本社の境内にあったのを祠官らがこの地に移して釈迦堂と名付けた。
 客殿 織田信長公の書院を移した九間梁十三間の大厦(たいか)。 二天門・妙見社・鐘楼などがある。



本遠寺の歴史的な位置  『名古屋市史』地図「(一一)熱田神領字入図」の一部
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『名古屋市史』には次のようにある。
 京都本国寺の末寺。初め熱田神宮境内にあった法華堂は、阿福長者の建立、または最澄の建立ともいわれている。最澄はこの堂にて法華経百日の修行をなした。また、日蓮もこの堂で百日読経して立宗の祈願をおこなった。その後、九老僧の一人、本乗院日澄がこの堂を本堂として当寺を建立した。よって古来当寺を熱田法華堂本遠寺と呼んだ。
 寛永十九年十一月、孝詔院日慧が京都本国寺と本末の論争になり、これを藩主に訴えたが敗訴し、当寺を退山した。
 享保七年八月十四日の暴風雨以来、毎年八月十四日に水斉会(川施餓鬼)を修する。
 四代藩主吉通の御簾中(ごれんじゅう)瑞祥院が参詣して以来、葵丸御紋を許され、その後位牌を納めた。


『張州雑志』の山門二天の像と長柄橋柱
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作者は不詳

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伝来は不詳。什物ということだが、なぜ『張州雑志』はこれを取り上げたのだろうか。


現在の本遠寺    本遠寺の位置
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 『尾張名所図会』にある「京都本遠寺」は「京都本国寺」・「日證」は「日澄」の誤りか。また、『名古屋市史』にある水斉会(川施餓鬼)は現在でも9月14日に行われているようである。『張州雑志』には、この水斉会のことが割りと詳しく記されている。被害の状況や水斉会の当日、寺で読経した後、船に乗り水斉会も供養をして写経したものを川に沈め題目を唱えるとある。
 また、『熱田町旧記』には毎年七月七日に宝物の風入れを行うとある。
 旧法華堂、旧山門は国の重要文化財に指定されていたが、太平洋戦争で消失した。残った蟇股(かえるまた)鰐口(わにぐち)は、市の文化財に指定されている。
『熱田区誌』 『史跡 あつた』 『張州雑志』 『熱田町旧記』 本遠寺HPより

by nitibotuM | 2012-05-05 15:43 | 尾張名所図会 | Comments(0)


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