尾張名所図会を巡る

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2012年 06月 29日

沢野山西福寺(たくやざんさいふくじ)

『尾張名所図会』の西福寺
 須賀町高御堂にあり。浄土真宗大谷派で、三河の野寺村本証寺の末。本堂の本尊阿弥陀如来は運慶の作。昔、百合若大臣(ゆりわかだいじん)が堂上より放鷹したことにより、鷹御堂(たかみどう)といっていたのを後世に高御堂と呼ぶようになったという伝承があるが定かではない。貝原篤信(かいばらあつのぶ)の『岐蘇路の記』によれば、百合若という人は古書にはないので、日本武尊を誤ったのであろうか。およそ東国と九州にある百合若大臣の古跡といわれる場所は、必ず日本武尊が通ったところであると論じているので、この熱田の地に百合若の古跡があるのは頗(すこぶ)る拠(よりどころ)があるように思われる。しかし、古くから越前の幸若の舞曲に、百合若大臣の舞があってその事実をいう、また、豊後国船居、今の府内にその古跡があって、そこの菖池山万寿寺に百合若とその娘の万寿姫の位牌などを安置しているので、百合若大臣は日本武尊とは全くの別人といえる。


歴史的な西福寺の位置(円福寺の北)
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『名古屋市史』には次のようにある。
 中瀬町にある。大谷派本願寺末。もとは熱田旗屋町沢野にあった。文亀中に僧正了(俗称は伊勢氏、伊勢の二見浦の社人)の建立で、天正二十年(1592)に愛知郡丸山村に移り、元和七年(1621)に御器所村に移り、寛永十年(1633)に熱田須賀町に移り、寛延元年(1748)に今の地に移る。



現在の西福寺    西福寺の位置
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 現在、西福寺は真宗大谷派の寺院で、白鳥三丁目になっている。戦後、国道19号線の拡張などで現在地に移った。
 『尾張名所図会』に「須賀町高御堂」とあるが、『名古屋市史』には中瀬町に「亀井山(円福寺)の北より西に折れて横町あり、高御堂町と称せり」とあるので、高御堂があったのは「須賀町」というよりは「中瀬町」とした方が、確証はないが妥当だと思われる。その高御堂がどこにあったのかは推測するほかないが、『名古屋市史』の記述からすれば、おそらく現在の国道1号線と19号線の交差する付近であると思われる。
 ただ、高御堂や百合若大臣に関する伝承は不明な点が多い。西福寺は『名古屋市史』によれば多く移転しているようで、当地に初めからあったわけではない。そうなると、西福寺と高御堂の伝承が生まれたのは、かなり後になってからであると思われる。もしくは、高御堂という町名が先にあり、そこに移転してきた西福寺と百合若大臣の話を結びつけて、そのような伝承ができあがったのかもしれない。
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by nitibotuM | 2012-06-29 16:41 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 06月 28日

竹島水族館

 蒲郡市にある竹島水族館を訪れた。小さな水族館だが、思ったよりもお客さんが多く、展示方法などに工夫があって、派手さはないが親しみを感じる地域に溶け込んだ水族館だった。



竹島水族館(2012年6月28日)曇り    撮影位置
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コウイカの赤ちゃん
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フウセンウオ
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by nitibotuM | 2012-06-28 19:08 | 花鳥風月 | Comments(0)
2012年 06月 24日

紫陽花

 自宅にある紫陽花。葉っぱばかりであんまり花は咲いていないが、綺麗なのがあったので撮影してみた。



紫陽花(2012年6月24日)曇り時々晴れ
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by nitibotuM | 2012-06-24 19:22 | 花鳥風月 | Comments(0)
2012年 06月 15日

揚輝荘の北園と千種公園のユリ

 午後からの貴重な梅雨の晴れ間を利用して、揚輝荘と千種公園を訪れた。揚輝荘は松坂屋の創始者である伊藤次郎左衛門祐民が、大正から昭和初期にかけて建設した別荘で、2006年に名古屋市に寄贈された。
 実際に揚輝荘を訪れてみると、静かな森の中に東洋と西洋を融合させた建物は独特の雰囲気が漂う。これだけの建物をこれからの時代に維持していこうとすると相当な財力が必要になると思われるので、寄贈されたことも納得できる。
 その後、新聞でユリの写真が掲載されていた千種公園を訪れたが、やはり人の数は多かったが、公園に遊具もあるので子供たちもたくさん遊んでいた。



揚輝荘の北園(2012年6月14日)晴れ    撮影位置
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千種公園のユリ    撮影位置
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by nitibotuM | 2012-06-15 18:31 | 花鳥風月 | Comments(0)
2012年 06月 11日

亀井山円福寺(かめいざんえんぷくじ)

『尾張名所図会』の円福寺
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 上知我麻神社(源太夫社)の西にある。時宗、京都四条の金連寺の末寺。亀井道場とも呼ばれている。当寺はもと天台宗の古刹であったが、開山の厳阿上人が足利家の一族で比叡山にいたが訳あって、遊行他阿上人に帰依して宗を改め、この寺の中興として住持した。元応元己未(1319)の年より足利治部大輔尊氏公(あしかがじぶのたいふたかうじこう)の帰依があって、坊舎数十宇を建立、寺領、宝物などの寄付があったけれども、数度の回禄(かいろく 火災)があって、灰燼(かいじん)となった。その後、普広院義教公(ふこういんよしのりこう)が富士御覧のため御下向の時、この寺に三日、御逗留され、和歌・連歌などの会があって、その時の懐紙・短冊などが今でも残っている。厳阿は知徳をそなえ、さらに和歌・連歌などにも長け、この寺で詠んだ呼続浜の歌は『新後拾遺集』に入っており、世間の膾炙(かいしゃ 評判)となった。厳阿は当寺に三十年ほど住んだ後、延文五年庚子(1360)九月三日に洛陽の四条道場、金連寺に転住して、応安三年庚戌(1370)九月二十八日に遷化(せんげ)した。 

本尊 阿弥陀如来 熱田大神宮の神作で厳阿にお授けになった霊像である。脇侍の毘沙門天は竜宮から現れた。また、大黒天は踏み込みの大黒といわれ、左足を踏み出している像である。脇壇の十一面観音は泰澄和尚の真作である。
観音堂 大日如来及び三十三所の観音を安置している。
開山堂 厳阿上人の像を安置する。
鐘楼 境内にある。
鎮守社 地主権現を祀る。
亀井 本堂の北にある。厳阿上人が人を雇って井戸を掘らせた時に、更に水が湧き出ることはなかった。穿掘(せんくつ)する事、三十五日で、井の底に不思議なものが掘り出された。厳阿が井戸の中に下って見ると、亀の甲羅が地面の底にあったが、その広大さは計り知れない。厳阿はこの地が本当に蓬莱であることを知り、その井戸を封じて、亀井と名付けて山号の銘として、霊地とした。

寺宝 百韻連歌懐紙 永享四年九月十三日 普広院殿自筆。発句は厳阿、脇は義教公、第三厳阿。  短冊 厳阿自詠。 その他多数の寺宝がある。

 芝居地 明暦二年(1656)当寺境内に於いて、芝居御免許があり、奥山清九郎、神岡勘弥というような役者が狂言を興行した。これが当国の芝居の始まりという。ちなみに、それより前の慶長十五年(1610)名古屋城の御造営の時、与治兵衛という者が、京都から女をたくさん連れて熱田に来て、町外れに桟敷(さじき 見物席)を設けて、勧進歌舞伎を興行した。その時、加藤清正の足軽二人が熱田へ使いにやってきたて、この芝居をムシロの囲いの隙間から覗いた。これを見つけた与治兵衛の奉公人が棒で足軽の顔を突いた。足軽はおとなしくその場所を去って、お金を払って鼠戸(ねずみど)から見物席に入っていったが、舞台に勢いよく上っていって、狂言師一人、女二人を切り倒して、さらに楽屋にいた与治兵衛までも手傷を負わせてその場を逃げ去った。与治兵衛はかろうじて命は助かったので、この事を加藤清正に訴えた。与治兵衛の訴えは当然の事で、足軽は見つけ次第、成敗するとして、女は望むだけの償いを与えるので許して欲しいと、さらに舞台の破損料、そして、与治兵衛の治療費も頂いた。女も前より優れた者を選んでくださったという話が、『続撰清正記』『尾陽雑記』などに見える。芝居の旧地はどこになるのであろう。熱田の町外れにもあったという事を書き記しておく。

円福寺の歴史的な位置
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『名古屋市史』には次のようにある。
 往古は洲崎の毘沙門堂と呼ばれていた。最澄が熱田神宮へ参籠の際に建立した。
 織田信長、織田信忠から諸役免除の書、織田大和守逵勝(みちかつ)から禁制の札を給わる。
 永正、承応の二度にわたる火災にあう。
塔頭には長光院、清浄軒、松徳院、清光院、竹光院、蓮福院、宝蔵院、竹等院、称名院、宝珠庵の十所であったが今はすべて廃している。末寺には、盛清寺(市場町)、姥堂(伝馬町)、光明寺(現在の岡崎市矢作町)の三寺がある。


『張州雑志』には次のようにある。
 十一面観音、是は行基の作にて昔、沢観音とて熱田四観音の一なりし荒廃の後、今の妙安寺建立の時、別に七観音を安置し此の像は円福寺にあづけ置しまゝ、爰にすへまいらす。(『尾張名所図会』に「泰澄和尚の真作」とある十一面観音のことか)


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開山厳阿上人像(「金連寺に移られける時、自の像を彫し」とある)

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観音石像 将軍田村丸、鏃(やじり)を以て此の像を彫刻す

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大黒天の像 毛利新助良勝、夢想の告有りて戦場に於いて彫刻

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大黒天の像 伝教大師の所造(『尾張名所図会』にもある踏み出し(踏み込み)の像)

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一遍上人網衣

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伝小野小町作(境内の地蔵堂にあったのであろうか)


現在の円福寺    円福寺の位置
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 現在、円福寺は時宗の寺院である。名古屋市内では当寺とその影響下にある姥堂が唯一の時宗の現存する寺院となっている。ちなみに時宗の祖、一遍は西山派の祖である証空の弟子の聖達の弟子になる。つまり、証空の孫弟子になり、法然から見れば、ひ孫弟子にあたる。そういった経緯から、時宗の教義は西山派の影響を指摘できる。また、熱田は浄土宗でも正覚寺を中心とする西山派の影響が強い地域であるといえ、時宗の円福寺が建立されているのはそういった状況も関係しているのかもしれない。
 『尾張名所図会』と『張州雑志』は、円福寺についてかなり詳しく記されている印象を受ける。もちろん当寺は、足利氏ゆかりの由緒ある寺であるので当然といえば当然であり、現在でも格式ある寺院として『尾張名所図会』にある連歌の懐紙などを残すが、多くの寺宝は戦災によって焼失した。また、当寺は国道沿いにあり、戦後の都市開発の中で、『尾張名所図会』にあるような大伽藍は姿を消した。
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by nitibotuM | 2012-06-11 18:39 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 06月 07日

神宮前駅の踏切

 遮断機を手動で上下させる踏切で、全国的に見ても珍しい。また、線路が多いので遮断機が上がるまでに時間が掛かる。いわゆる「開かずの踏切」。さらに特徴的なのは、全開と半開があり、全開にならないと車は進入できないという規則がある。初めてここに来るとおそらくその規則に混乱すると思われる。そういった複雑さから事故がたびたび起きており、7月1日よりこの踏切も通行止めになる。
 昔からあったのであまり気にはしていなかったが、いざ無くなると地元の風景がまた1つ消える想いで、最後の見納めで散歩のついでに写真に残してきた。地元なので当たり前のようにあったが、よく考えれば、かなり珍しい踏切で、現代版の『尾張名所図会』があれば、その候補にも十分なると思う。ただ、今日見ていただけでも車の誤進入などもあり、危険な一面はあった。この光景が無くなるのは少し残念だが、これも時代の移り変わりなのであろう。





神宮前駅の踏切(2012年6月7日)曇り時々晴れ    撮影位置
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by nitibotuM | 2012-06-07 20:17 | 花鳥風月 | Comments(0)
2012年 06月 06日

金星の日面通過

 朝は曇っていたが9時過ぎ頃から晴れとなった。ちょっと時間をつくって太陽を撮影。




金星の日面通過(2012年6月6日)晴れ
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D300 1530mm相当
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by nitibotuM | 2012-06-06 12:00 | 花鳥風月 | Comments(0)
2012年 06月 04日

景清社(かげきよのやしろ)

『尾張名所図会』の景清社
  表大瀬古(おもておおせこ)の東の方にある。平家の勇士、悪七兵衛尉景清(あくしちびょうえのじょうかげきよ)が大宮司の婿であったこと、主家が没落した後に、身をやつして熱田に潜居していたこと、このような旧跡が所々にある。木下実聞が書いた『厚覧草付録』にもあって、八剣宮の東北の方にも、景清屋敷と呼ばれている旧地がある。『東鑑』『源平盛衰記』『平家物語』等の実録に、景清が熱田にいることは見えないが、頼朝公の大敵の余党を見逃して置いていたのは、ともに大宮司の縁者である為である。
 『長門本平家物語』に景清が建久六年(1195)頼朝公に降参して、鎌倉の八田知家(はったともいえ)の家にいたが、翌年三月七日に死去したとある。


景清社の歴史的な位置    『尾張国町村絵図』「熱田」の一部
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  中央に小さなピンク色が二箇所並んでいる右側が「景清社」


『名古屋市史』には次のようにある。
 寿永元年(1182)の創建。祭神は平景清。例祭は九月十七日。
 景清の宅跡と言われる所は三所ある。1.熱田南新宮社の北、清雪門の付近。2.熱田大瀬子3.古渡の新町の内、新橋より北へ入る町屋の西角 以上、どれが真かは分からない。
 景清は大宮司季範の伯父とも婿ともいわれる。また、謡曲には遊女と相馴れ、一人の子をもうけた。浄瑠璃には、阿古屋という遊女と馴れ染むともある。
 門前町浄久寺の宝物に千手観音があって、景清が自ら矢尻で彫った小仏が納めてある(胎内仏)。また、位牌があり水月景清大居士、健保二甲戌年八月十五日とある。



『尾張名陽図会』の景清藪
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 古渡にあった景清の旧地を伝えている。(下に小さく景清藪とある)




現在の景清社    景清社の位置
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 『尾張名所図会』・『名古屋市史』の記述や『尾張志』の知多郡に「景清宅」を取り上げて「当国に景清の宅跡といふ所の多きは、池大納言(平頼盛)の尾張守たりし時、其目代に宗清、景清等在国せし」とあるように、景清は熱田をはじめこの地方に何らかの関わりを持っていたようである。ただ、全国各地に景清の旧跡は残っており、この地方に残る旧跡もそうした伝承の1つなのであろう。
 景清は『平家物語』にその勇猛な姿が記され、また、叔父の大日房能忍(だいにちぼう のうにん)を殺害してしまったというような話から『尾張名所図会』にもあるように「悪七兵衛」と呼ばれ恐れられていた。こういった「悪」というものまでも畏敬の念をもって、祭神として祀るというのは日本的な思想なのかもしれない。粗暴的な一面を見せるスサノオを祭神としたり、また、仏教においても有名なところでは『法華経』「提婆達多品」で釈尊に迫害を加えた提婆達多までも授記(仏となる約束)されるというように、日本では西洋の神のように完全無欠の唯一絶対ではなくとも神仏になれるという思想を受け入れやすいといえる。こういった視点で景清社を捉えてみるのも面白いかもしれない。
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by nitibotuM | 2012-06-04 19:26 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 06月 01日

扇の橋(おふぎのはし)

『尾張名所図会』の扇の橋
 表大瀬古(おもておおせこ)にある。ここは将門の首を埋めた跡と伝わる。「将門は米かみよりぞ射られける」という故事によって、この橋は、米かみ橋とも呼ばれる。


扇の橋の歴史的な位置    『尾張国町村絵図』「熱田」の一部
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 中央に小さなピンク色が二箇所並んでいる左側が「三狐神社」(社宮司社)で、その付近に扇川が流れていて、そこに扇の橋が架けられていたと思われる。


『張州雑志』の米かみ橋 扇川
 神戸に在り。長さ三尺計溝の橋也。


現在の扇の橋(推定)   扇の橋(推定)の位置
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 現在、扇橋の遺構は全くない。また、それがあった場所も詳しくは不明である。ただ、現在の社宮司社に説明があり、扇川の「源流は中瀬から表大瀬古を流れ大瀬古へ南側に祠あり」としている。したがって、推測ではあるが、扇川は現在の国道19号線から亀井山円福寺あたりを流れ、景清社あたりで扇の橋があったと思われる。いずれにせよ、古地図を見ても記されていないし、『張州雑志』に三尺の溝と言われている程のもので、そんなに大きな川ではなかったことは推測できる。ちなみに扇の橋は明治末期に復元されたが、大正初年に市道拡張のために撤去されたとも先ほどの説明にはある。
 また、『熱田 歴史散歩』には平将門の乱に際して、「全国各地の神社に将門調伏(ちょうぶく)を祈らせた。熱田神宮においても、神人らが本宮の神輿(じんよ)を振り出し、星崎に渡御して乱の平定を祈願した。(中略)神輿を振り出した星崎の地は、現在の星宮社(南区本星崎町)といわれ、乱平定後、天下安穏を祈って熱田の七社を祀ったのが七所神社(南区笠寺町)である」とこの地方と乱の影響を解説している。
 このように当時、平将門の乱が社会に与えた影響は計り知れなかったのであろう。そうした中で、当地でもこういった話が語り継がれ、怨霊を鎮める為に当地の「米かみ橋」と「三狐神社」の伝承が出来たと思われる。これも東京をはじめ全国にある将門の首塚の伝承の1つなのであろう。
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by nitibotuM | 2012-06-01 16:34 | 尾張名所図会 | Comments(0)