尾張名所図会を巡る

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2009年 03月 26日

熱田元服の式略(あつたげんぷくのしきりゃく)

『尾張名所図会』の熱田元服の式略
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 熱田の西浦、東浦の若者は初午の日に元服して童名を改めた。その儀式には昨年元服した若者を招待するが、招待された若者は異様な髪を結い、日中に提灯を持たせる。招待側から出迎えに行った大勢の取持を前後にしたがえ、道程わづか4、5丁の間を昼間から暮れ方に其の家に着くように、蟻のように歩く。途中で我がままを言って、取持の者を困らす。例えば小石1つをみて大きな岩があるといい、水のこぼれた所を深い河があるので渡れぬという具合である。その都度、大勢で石を掘り取り、水に板で橋をわたした。こんな奇習があった。     『熱田区の歴史』より
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by nitibotuM | 2009-03-26 20:52 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 25日

築地楼上の遊興(つきじろうじょうのゆうきょう)

『尾張名所図会』の築地楼上の遊興
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 田楽 つき出しのはちのさかなも熱田がたみどころ多き宮の浜やき


築地楼上の遊興
 宮の遊里は神戸、伝馬、築出の3カ所あった。神戸、伝馬、築出の順番にランクがあった。特に一番ランクの高い神戸の中でも鯛屋、永楽屋、駿河屋は三大妓楼と呼ばれ、江戸末期の文化2年(1805)頃には江戸、京、大坂までその名が知られていた。   『史跡 あつた』より



当時、三大妓楼があった神戸を望む
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by nitibotuM | 2009-03-25 20:28 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 24日

魚市問屋(うおいちといや)

『尾張名所図会』の魚市問屋
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 木之免浦より東の浜辺で毎日、市が行われている。織田信長が清洲城にいたころから、この浜には数件の問屋があって毎日、清洲まで魚介を運んでいた。いつ頃からここで市があるのかは分かっていないが、寛永の頃、問屋や株の制度が定まると、権左衛門・仁左衛門・三左衛門・甚三郎・又三郎・七左衛門の六家を中心に商いをして繁盛した。市は、毎日、朝市と夕市の一日二回行われ、多くの魚介が集まった。魚介は尾張はもとより、周辺の色々な地域から船で運び込まれる。また、三河の吉田(現在の愛知県豊橋市)あたりからは徒歩で荷物が運ばれる。これらを六軒の問屋がたくさん運ばれる魚介を即座に売りさばく。多くの人が尾張をはじめ美濃・信濃からも集まり徒歩で荷物を送る。その賑わいは他に見られない。


魚市問屋(木之免町)の歴史的な位置
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現在の熱田魚市場跡(現在の大瀬子公園)    大瀬子公園の位置
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 昭和24年(1949)に名古屋中央卸売市場が名古屋市熱田区にできると熱田魚市場は姿を消し、現在、その跡は大瀬子公園となっている。また、以前はこのあたりに、かまぼこ屋も多くあったのだが、現在はその数も減った。
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by nitibotuM | 2009-03-24 19:47 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 23日

年魚市潟(あゆちがた)

『尾張名所図会』の年魚市潟
 愛知郡の海辺(現在の名古屋市熱田区から南区)のことを年魚市潟と呼んでいるが、古歌には知多の浦や氷上(現在の緑区大高町)あたりも含まれている。したがって、年魚市潟は熱田から知多のあたりまでを含むことになる。年魚市潟が紀伊国の名所とあったりもするが、『日本書紀』をみると年魚市はここの地名であることは確かである。



現在の年魚市潟(名古屋市熱田区伝馬町)
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 年魚市潟は熱田区から緑区の範囲に広がっていた遠浅の海岸線のことを指していたと思われる。しかし、現在、年魚市潟と呼ばれていた範囲は新田開発などによって陸地となっている。この年魚市潟は『万葉集』に「年魚市潟 潮干(しほひ)にけらし 知多の浦に 朝こぐ舟も沖に寄る見ゆ」とあり、その歴史は古い。この「年魚市(あゆち)」は「愛知(あいち)」の語源になったと言われている。また、熱田(あつた)の語源も年魚市潟(あゆちがた)が由来であるとする説もある。



年魚市潟勝景跡の碑(白毫寺)     眉間山白毫寺の位置
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 白毫寺から現在は全く海は見えはないが、古代、このあたりまで海岸線が来ており海が見渡せたと思われる。また、『万葉集』には、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が現在の名古屋市南区桜本町あたりの年魚市潟で詠んだと思われる歌も残されている。(上知我麻神社を参照)
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by nitibotuM | 2009-03-23 20:30 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 22日

浜常夜灯(はまのじょうやとう)

『尾張名所図会』の浜常夜灯
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 渡船場の岸にあって、夜に船が着岸する時の目印となっている。この常夜灯は、寛永二年(一六二五)に成瀬隼人正正房が父の正成の遺命によって建立したものである。その時、常夜灯の永代の灯明料として須賀浦太子堂(熱田区大瀬子町の聖徳寺)に田地を寄付したが、その後、故あって神戸町の宝勝院へ田地を譲り、今はこの宝勝院が管理を任されている。


浜常夜灯の歴史的な位置       『尾張国町村絵図』「熱田」の一部
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分かりにくいが左下に小さくある。


『名古屋市史』の常灯明
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『張州雑志』の常夜灯
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現在の常夜灯    常夜灯の位置
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 聖徳寺の隣地にあった常夜灯は承応3年(1654)に現在あるあたりに移され、宝勝院の管理となった。寛永3年(1791)に民家からの火災による類焼で焼失したが、同年、成瀬正典によって再建された。その後、この常夜灯は荒廃していたが、昭和30年(1955)に復興され、現在は宮の渡し公園で見ることが出来る。
 江戸時代からこの常夜灯はあったのだが、当時は夜間の航行が禁止されていたようである。
『熱田 歴史散歩』 『史跡 あつた』より
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by nitibotuM | 2009-03-22 20:12 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 21日

間遠渡(まどおのわたり)

『尾張名所図会』の間遠渡
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 この熱田宿の湊から伊勢の桑名までの七里を船で渡る。壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が東国に逃げるため伊勢から尾張へと船で渡った時、遠く時間が掛かったので「間遠」と名付け、それが今に伝わったものである。しかし、この海上七里の船旅は尾張と伊勢の美しい景色が続き、遠さを感じさせない。



現在の間遠渡
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 間遠渡は「七里の渡し」、「宮の渡し」などとも呼ばれ、東海道としてこの船着場が始まったのは元和2年(1616)だといわれている。また、この湊の管理は船奉行を兼ねた熱田奉行が行い、その配下の船番所が厳しく旅人を監視していた。『尾張徇行記』に「船番所ハ御関所同前ナレバ」とあり、当時の監視の厳しさが分かる。
 ちなみに文政8年(1825)の船賃は、乗り合い1人の場合68文だったそうである。そして、船旅の所要時間はおおよそ4時間前後であった。
『熱田 歴史散歩』 『史跡 あつた』より



東海道七里渡青鷺川旧碑     の位置
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by nitibotuM | 2009-03-21 20:45 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 20日

ヤマガラ

ヤマガラの水浴び2
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by nitibotuM | 2009-03-20 18:45 | 花鳥風月 | Comments(0)
2009年 03月 19日

熱田潟(あつたがた)

『尾張名所図会』の熱田潟
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 和歌に熱田の潟、尾張の潟と詠まれている。



『名古屋市史』には次のようにある。
 熱田湾は、名古屋湾と呼ばれるようになった。もとは熱田潟、熱田の浦、熱田の海、尾張の海とも言われた。享禄のころまでは上知我麻神社あたり(現在の「ほうろく地蔵」の場所)までが海であった。その後、次第に築地して、今のようになった。須賀、大瀬子、東脇の三浦である。



現在の熱田潟
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 江戸時代を通じて多くの新田開発がなされ、熱田潟の地形は大きく変わった。以前あった精進川が大正15年(1926)に埋め立てられ、新たに新堀川となるなど、明治以降も国道の開通や都市開発の中で大きく変化している。現在は宮の渡し公園に「時の鐘」と「常夜灯」が復元され、当時の面影を残している。
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by nitibotuM | 2009-03-19 19:49 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 18日

神戸町(ごうどまち)

『尾張名所図会』の神戸町    神戸町の歴史的な位置(西浜御殿のあたり)
 『和名抄』に「愛知郡神戸」とあり、文和三年の熱田神領の目録に「高戸郷(ごうどのごう)畠三町四反」とあってこの地は古い神戸(神社に付属した民戸)である。
 神戸の前には広い海が広がり、遠くまで見渡すことが出来る。また、多くの旅人が往来し、豊かに栄えている。


『名古屋市史』には次のようにある。
 『尾張国地名考』に「カウドは越度(こすど)の音便にや、此所より船に乗りて他所へゆく所なればなり」とあるが曲解か、「神戸」は熱田神宮の神戸(かんべ)と見た方が良いのか。



現在の神戸町    神戸町の位置
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 『和名抄』にある「神戸」(上知我麻神社も参照)が現在の名古屋市熱田区の神戸町(ごうどちょう)にあたるのかは詳しく分かっていない。『愛知県の地名』によれば、『和名抄』にある「神戸」は、熱田神宮の神戸(神社に付属した民戸)にあてる場合、現在の熱田区神戸町あたりにその地をあて、伊勢神宮の神戸にあてる場合は、名古屋市中川区にその地をあてる2つの説を紹介している。
 『和名抄』の「神戸」は訓がなく、読み方は不明ではあるが、なぜ熱田区の神戸は「かんべ」ではなく「ごうど」と読むのか。『尾張国地名考』には、それに対する津田正生の説がある。しかし、古代からこの地が船を主体として移動する場所として機能していたのだろうか。仮に、その様な場所だとしても、なぜ「神戸」の字をあてたのか。確かに『名古屋市史』が言うように津田正生の説も無理があるように思われる。いずれにしても「神戸町」の由来については不明な点が多い。
 

 
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by nitibotuM | 2009-03-18 21:11 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 03月 17日

寝覚里(ねざめのさと)

『尾張名所図会』の寝覚里    寝覚里(東浜御殿)の歴史的な位置
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 寝覚の里は尾張か美濃にあるが、熱田の東浜御殿のところもその場所である。東浜御殿の東は、大きい松の木があり、櫓を「ねざめの櫓」(寝覚楼)といって、名前の名残がある。


『名古屋市史』には次のようにある。
 寝覚の里は1.浜の鳥居の東 2.片町東御殿の地 3.知多郡名和村(寝覚の字あり) 4.熱田より鳴海宿までの浦づたい 5.松風の里の別称 などと伝えられている。しかし、古歌にある寝覚は信濃の寝覚の床か美濃の寝覚の里を詠むことが多い。



現在の寝覚の里
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 写真は、当時東浜御殿(『尾張名所図会』での「寝覚の里」の推定地)があったと思われる範囲を撮影したものである。
 その他、『名古屋市史』にあるように「寝覚の里」は、色々な場所が推定されている。この「寝覚の里」の由来であるが、写真の場所の場合は『名古屋市史』に徳川光友が東浜御殿から望む遠くの景色が目覚める心地がするからとあるが、いまいち分からない。また、『名古屋市史』の3つめの場所として、名和村(現在の東海市名和町)をあげているが、現在でも「寝覚」という地名が残っている。そこには石碑があり、名和の寝覚の里の由来を「千八百年の昔、倭武天皇の火上の行在所に坐しし時、朝な朝なに海潮の波音に、寝覚し給ひし方なる故」と記している。以上のように、「寝覚の里」と言われるところは多くあるが、その由来や元々の場所も分からないことが多い。


名和町の寝覚の里(石碑は名古屋市緑区大高町にある)
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by nitibotuM | 2009-03-17 19:56 | 尾張名所図会 | Comments(0)