尾張名所図会を巡る

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2009年 02月 28日

鈴御前社(すずのごぜんのやしろ)

『尾張名所図会』の鈴御前社    鈴御前社の歴史的な位置(地図では鈴之宮)
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 正覚寺の東にあり、祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。六月末日に「夏越しの祓い」がここで行われる。本来は、熱田神宮の祭事である。祭事は、茅の輪(ちのわ)を飾り、五串に五色の幣(ぬさ)をさし、渚の蘆の葉に白木綿をつけて、穢(けが)れをはらう。当日には多くの人が集まる。伝馬町の家々には作物(つくりもの)があり、賑わいを見せる。

『尾張志』には次のようにある。
 祭神は天鈿女命と言われているが、詳しくは分かっていない。元々、鈴御前社は東脇村(現在の伝馬1丁目)にあったのを、いつかは分からないが、精進川のところへと移したのである。富江町(現在の伝馬1丁目)にある「ささ(笹)の宮」が以前、鈴御前社があった場所である。




現在の鈴之御前社(れいのみまえしゃ)    鈴之御前社の位置 
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 7月31日の「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」
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 鈴之御前社は鈴の宮(れいのみや)ともいわれ、現在は伝馬2丁目にて鎮座する。しかし、以前は『尾張名所図会』にあるように正覚寺の隣にあり、その横には精進川が流れていた。その昔、精進川は熱田宿の東の境であった。したがって、東海道を東(江戸方面)より熱田宿へとやってくる旅人は精進川のほとりのここで身を清め、「鈴の祓い」を受けたといわれている。
 上の写真にあるように現在でも毎年7月31日に「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」が行われている。当日は付近の家々で笹に付いた提灯の明かりがともり、「祓芦」(はらえよし)を持ち、「茅の輪」をくぐり、家族の無病息災を祈る。

 『史跡 あつた』  鈴の宮「茅の輪くぐり」のご案内より
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by nitibotuM | 2009-02-28 19:38 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 02月 27日

松風里(まつかぜのさと)

『尾張名所図会』の松風里                        松風里 古覧
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 松風の里を尾張の名所として記す古書は多い。しかし、どこの場所が松風の里になるのか詳しくは不明であるが、『厚覧草』(あつみぐさ)に「松風の里、正覚寺の辺(ほとり)をいふ」とある。もしくは、鳴海のあたりが松風の里であるという人もいる。
                                    正覚寺の歴史的な位置


『名古屋市史』には次のようにある。
 松風里は鈴の宮(れいのみや)の北辺、正覚寺の地、東浜御殿の内、知多郡横須賀村の内、荒井牛毛村(名古屋市南区)、鳴海の西の方の浦、知多郡大高村など諸説ある。




現在の松風里(推定場所)                    撮影場所付近の位置
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                                     撮影場所付近の位置
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 現在、「松風里」を思わせるものは全く残っていない。写真の広い道路は国道1号線である。国道1号線や都市開発の中で、このあたりの様子も大きく変わった。
 写真にある名鉄電車の高架(緑の高架)あたりに精進川が流れていたと思われる。以前は1枚目の写真の高架あたりまで正覚寺の境内があった。おそらく、古地図から推測すると、1枚目の写っている範囲は当時、正覚寺の境内の一部であったと思われる。そう考えると、上の写真のあたりが『尾張名所図会』でいわれた松風里の場所で、一面に松が広がっていたのであろう。
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by nitibotuM | 2009-02-27 20:29 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 02月 26日

亀足山正覚寺(きそくざん しょうがくじ)

『尾張名所図会』の正覚寺    正覚寺の歴史的な位置
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 伝馬町の今道にあり、浄土宗西山派の寺院で京都禅林寺・光明寺の両末で、尾張三檀林(曼陀羅寺・祐福寺・正覚寺)の一寺である。正覚寺は永享六年(一四三四)に融伝永乗和尚(ゆうでんえいじょうおしょう)が創建した。
 融伝は部田(へた 現在の東郷町)の祐福寺(ゆうふくじ)で住持していた時、熱田神宮に何度か参宮していた。そのある時、鈴の宮(れいのみや)の側で、老翁に出会った。その老翁は神職で名を粟田城太夫(あわだじょうだいふ)という。その老翁は、この地を融伝に寄付するので、精舎を建立して衆生を救って欲しいと願い出た。ところが、すぐにその老翁は行方が分からなくなった。翌日、粟田城太夫の家に行って昨日の話をしたのだが、昨日の老翁とは全くの別人であった。しかし、融伝からその話を聞いた粟田城太夫は、大神からのお告げであると思い、その地主の元に行き、その話をすると地主も話を理解して、その土地を融伝に託した。それより堂宇を造立して融伝が住職となった。その後、融伝は永享九年四月十一日に遷化する。
 また、ある時、融伝が祐福寺から熱田神宮へ向かう途中、鳴海山を越えようとした時、狼が一匹現れ、大きな口を開けて融伝に迫った。よく見ると狼は喉に物を詰まらせていた。融伝は狼の口に手を入れて、詰まっている物を取り出すと、角のある骨であった。狼は喜んで、尾を振り融伝にお礼を言って去って行った。また、夏の暑い日に鳴海山を越える時、喉が渇いたので錫杖で地面をたたくと、綺麗な水が湧き出てきた。これは今でもあり融伝泉と言われている。そのためこの土地の者は、融伝の徳の高さをたたえ、感謝している。
 本尊 阿弥陀立像 脇壇に十一面観音・地蔵尊を安置する。鎮守 氷上神社。
 本堂の側らに「亀足井」がある。融伝が神勅によってここを掘ると大きな亀の足が出てきた。これが山号の由来で、その時の井戸でもある。塔頭は五院あったが、現在は真乗院と慈眼寺だけである。
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 融伝和尚狼の故事   『小治田之真清水』


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 この碑は享保十三年(一七二八)に融伝の遺徳を偲んで立てられた。碑には「愛知の東麓 瑟彼の泉にあり 神の助ける所 民、賜を受く 刺山標を異にし 卓地賢を稱ふ 吾が師をして愧しめず なお耕田に漑ぐ」(原漢文)とある。
 融伝泉の碑 案内板より                     融伝泉の碑の位置


 

『名古屋市史』には次のようにある。
 正覚寺は正壇林にして一等で粟生(あお)の光明寺の末寺である。永享六年六月に融伝永乗によって創建された。九月には後花園天皇より勅願の綸旨と弥陀三尊の図像を賜った。永禄二年十一月、正親町天皇より勅願の綸旨と白銀十枚を賜った。その後、七世の大融仙恩の時に尾張三檀林となった。
 本尊は木像の阿弥陀如来立像。堂宇は、本堂、書院、玄関、庫裏、宝蔵、鐘楼、所化寮、大衆寮、茶寮、小座敷、倉庫、中門、総門、十王堂、鎮守堂(氷上神社)、稲荷堂である。
 塔頭は、定泉院、明鏡院、心叟院、真乗院(開山は融慶玄作)、蘭崇院、慈眼寺の七所である。残ったのは真乗院、蘭崇院の二院である。


『張州雑志』の亀足井と氷上神社
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現在の正覚寺    正覚寺の位置
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稲荷殿
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 現在、正覚寺は西山浄土宗の壇林である。熱田は、浄土宗でも西山派(光明寺(西山浄土宗)・永観堂(禅林寺派)・誓願寺(深草派))の寺院が多い地域である。現在、熱田にある西山派の寺院は光明寺末か永観堂(禅林寺)末となっているが、以前はこの正覚寺の末となっていた。すなわち、この正覚寺は熱田の西山派を統括する重要な寺院であったと言う事である。現在も西山浄土宗の壇林として、格式のある寺院であるが、国道1号線や都市開発の中で、以前のような大伽藍は姿を消した。なお、『史跡 あつた』の中に民話的伝承として上の稲荷殿に関すると思われる、「正覚寺の稲荷の話」というものを取り上げているが、内容が記されていない。どなたかご存じの方は、ぜひご教示願いたい。



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 正覚寺の塔頭で唯一残った真乗院
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by nitibotuM | 2009-02-26 21:40 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 02月 25日

蓬雲山乾徳寺(ほううんざん けんとくじ)

『尾張名所図会』の乾徳寺    
 伝馬町の中程にあり、臨済宗で京都妙心寺の末寺である。慶長年中の創建である。

『名古屋市史』・『尾張志』には次のようにある。
 天正五年(一五七七)に丹羽郡楽田村(現 犬山市)にて僧の明久が創建した。また、東叔和尚を開山として、寛永十六年(一六三九)にこの地に移った。

乾徳寺の歴史的な位置 『名古屋市史』地図「(一一)熱田神領字入図」の一部
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現在の乾徳寺    乾徳寺の位置
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 臨済宗妙心寺派の寺院。現在、乾徳寺は伝馬町にはない。都市開発の中で移転して現在は瑞穂区にある。



熱田の寺院の山号にみる蓬莱伝説
 「熱田百ヶ寺」と言われるように熱田は寺院の数が多い。『熱田町旧記』によると「寺院九十五ヶ寺・堂二十宇」とあり、その数の多さが分かる。
 また、熱田は古来より、「蓬莱島」または「蓬が島」と呼ばれ蓬莱伝説がある。熱田の寺院の中には、山号や縁起などをみると、この伝説に由来したものが多い。この蓬莱伝説とは、中国の伝説で、亀の甲羅の上にある山に不老不死の薬を持つ仙人が住み、そこが不老不死の地とされたというものである。つまり、熱田はこの蓬莱の地だということである。(熱田以外にもこの蓬莱伝説が残る場所は日本全国各地にある。)この乾徳寺の山号は「蓬雲山」で「蓬莱」の「蓬」の字が使われており、この伝説に由来している。この他の寺院の山号をみても「蓬」や「亀」が使われたものが数多くある。

『熱田 歴史散歩』 『熱田風土記 巻八』より
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by nitibotuM | 2009-02-25 16:48 | 尾張名所図会 | Comments(2)
2009年 02月 24日

石地蔵尊(いしじぞうそん)

『尾張名所図会』の石地蔵
 伝馬町の中程にある辻地蔵である。この地蔵は、もと三河国重原村にあり、野原の中に捨て石のような状態であった。そこに焙烙(ほうろく 土鍋のこと)を売る者が、この地蔵を荷物のバランスを取るために拾って、この地蔵を持って熱田までやってきて焙烙を売った。焙烙を売り尽くしたので、この地蔵も熱田の海辺の葦の草むらに捨てていった。地元の者が、捨ててあったこの地蔵を見つけ安置しようとしたが、動かなかったので、おかしいと思い地面を掘ってみると、この地蔵の台座と思われる石が見つかった。みんなが不思議な事もあると思い、その台座を掘り出して、そこにこの地蔵を安置したのが、この地蔵(ほうろく地蔵)である。


『張州雑志』の「今道の石地蔵」
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 上知我麻神社の東、伝馬町に石地蔵が一躰、商家の軒下にある。古びた地蔵で誰の作かは詳しく分からない。言い伝えによると弘法大師が六躰の地蔵を彫刻してこの地に安置した一つだとも言われているし、昔ここに仏院があったが壊れて、この地蔵だけがここに残ったとも言われている。
 
 この『張州雑志』にある「今道の石地蔵」は場所から推測すると現在の「ほうろく地蔵」と思われるが、どうなのであろうか。




現在のほうろく地蔵    ほうろく地蔵の位置
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 上の写真のほうろく地蔵がある場所には以前、上知我麻神社があった。この場所に上知我麻神社があった当時、ほうろく地蔵があった場所は推定ではあるが、現在の伝馬町交差点から南の旧東海道と交わる地点であろうか。
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by nitibotuM | 2009-02-24 21:08 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 02月 23日

伝馬町駅舎(てんままちえきしゃ)

『尾張名所図会』の伝馬町
 『延喜式』兵部省には記載がないが、『吾妻鏡』(『東鑑』)以降(鎌倉時代末期)には熱田に宿泊したとの記載が見られるようになる。伝馬町(その中でも今道(いまみち)と呼ばれた場所)は永禄の頃より人家が建ち、町並みとなった。伝馬町は東海道五十三次の中でも特に栄えているところである。

『名古屋市史』・『尾張志』・『張州雑志』・『尾張徇行記』の伝馬町
 伝馬町は昔、「宿」(現在の伝馬一丁目)と「今道」(現在の伝馬二丁目)に分かれていた。伝馬町の西側は古くから旅籠や問屋などが建ち栄え「宿」と呼ばれていた。伝馬町の東側は「今道」と呼ばれ、古くは葦が茂り人家は少なかったが永禄の頃より人家が多く建ち、町並みとなった。この今道ができたのはいつ頃なのか詳しくは分かっていない。また、今道が出来る前は違う道筋があったようである。この「宿」と「今道」を慶長年中より合わせて伝馬町とした。

伝馬町の歴史的な位置  『名古屋市史』地図「(一一)熱田神領字入図」の一部
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上知我麻神社(源太夫社)と伝馬町「宿」の賑わい   『尾張名所図会』前編四巻
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 高札場が上知我麻神社の脇にある。また、小さいが道標が見える。




「熱田宿」(「宮宿」(みやのしゅく))の概観           
 江戸からの距離88里35町7間(約360㎞)になる。また、天保14年(1843)には家数2924軒、人口10,342人、本陣2軒(神戸町と伝馬町)、脇本陣1軒(伝馬町)、旅籠屋は248軒を擁したという。
 本陣は勅使・院使・大名・旗本などが使用した宿舎である。神戸町にあった本陣は南部新五左衛門が務め、伝馬町にあった本陣は森田八郎右衛門が務めた。また、神戸町の本陣は「赤本陣」と呼ばれ、正本陣とされた。伝馬町の本陣は「白本陣」と呼ばれた。
 脇本陣は、本陣の予備として街道に設けられた宿舎で、本陣に空きのない時に利用された。また、熱田には 脇本陣格の旅籠が10数軒あり、「七里の渡し」の近くに今でも残る「伊勢久」(いせきゅう)はその1つである。   『熱田 歴史散歩』より


赤本陣    『小治田之真清水』(おわりだのましみず)二巻
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現在の伝馬町(旧東海道)
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 現在の伝馬1丁目で、旧東海道にあたる道である。昔は伝馬町の特に「宿」と呼ばれ古くから栄えた所である。また、下の道標がある地点は東海道と佐屋路(さやじ)・美濃路(みのじ)の分岐点であり、交通の要所であった。 撮影位置
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 上にある上知我麻神社(『尾張名所図会』)の絵と同様の方向から撮影。突き当たりに以前は上知我麻神社があった。(今はほうろく地蔵がある。)
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 この道標は当時と同じ位置に立っており、寛政二年(1790)のものである。また、道標には次のように刻まれている。 東面に「東  北 さやつしま 同 みのち 道」 西面に「西  東 江戸かいとう 北 なこやきそ道」 北面に「北  南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社弐丁 道」 南面には「寛政ニ庚戍年」と刻まれている。
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 この道標は宝暦八年(1758)のもので、現在は損傷が激しいが、上の道標とほぼ同様の文字が刻まれている。また、この道標は大正十二年(1923)に撤去されて、現在は30mほど東に移っているため、当時の位置にはない。上にある上知我麻神社(『尾張名所図会』)の絵にある道標はこの道標である。


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 現在の伝馬2丁目で、特に伝馬町の「今道」と呼ばれていたところである。 
 撮影位置




現在の赤本陣    赤本陣の位置
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 現在の伝馬1丁目より神戸町を望む。有名な蓬莱軒の裏が赤本陣跡。
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 赤本陣跡。




現在の白本陣(推定)   撮影場所
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 白本陣の位置は現在全く分からない状態になっている。天明四年の『熱田三ヶ浦町並之図』と明治三十六年の『熱田町実測図』などと現在の地図を比べると撮影位置よりやや南のところに白本陣があったように思われる。ただし、『尾張国町村絵図』を見ると東海道沿いに「本陣」とあるので、ほぼ写真の位置ということになる。いずれも詳細については不明であり、推定の域を脱しない。




現在の脇本陣格「伊勢久」    伊勢久の位置
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by nitibotuM | 2009-02-23 22:00 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 02月 22日

上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)

『尾張名所図会』の上知我麻神社    上知我麻神社の歴史的な位置
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 市場町伝馬町の西にある。源太夫社(げんだゆうしゃ)、また知恵の文殊とも言われる。『延喜式』には上知我麻神社、『本国帳』に正二位上知我麻名神とある。千我麻(ちかま)は郷名で、『和名抄』愛知郡(あいちのこおり)千竃(ちかま)とあるのはここにあたるか。もしくは現在の星崎(名古屋市南区)であるのか確かでない。祭神は小豊命(おとよのみこと  乎止与命)である。乎止与命は天火明命(あめのほあかりのみこと)よりはじまる尾張氏の十一世である。(乎止与命は宮簀媛(みやずひめ)の父である。詳しくは布曝女町を参照)
 境内には、大黒天祠(だいこくてんのほこら)があり、毎年正月五日に初市がある。ここで恵比須・大黒の摺絵(すりえ)を授かる。また、ここでは、お福餅、掛鮒(かけぶな)、苧(お 麻のこと)、葱(ねぎ)を売っている。これらは大黒を祝い福を祈る意味があり、御福迎(おふくむかえ)と呼ばれている。



『熱田町旧記』には次のようにある。
 大瀬古浦(おおぜこうら)の弥右衛門が御福餅と名付けて昔から売る。この御福餅を御殿の上に投げ揚げてから参拝する。また、麻、松、根深(ねぶか ネギのこと)を売る。根深は七日に粥に入れる。

源太夫社の初市    『尾張名所図会』前編四巻
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『和名抄』にみる愛知郡
 『和名抄』とは『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』のことで、930年代に成立した百科漢和辞書である。勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
 『和名抄』の中で愛知郡には次のような地名が記されている。中村、千竃(ちかま)、日部(くさかべ)、太毛(おおけ)、物部(もののべ)、熱田(あつた)、作良(さくら)、成海(なるみ)、駅家(うまや)、神戸(かんべ)である。しかし、それぞれ現在のどこの地域に推定されるのかは詳しく分かっていないが、簡単にそれぞれについて概観したい。
 中村の読みは「なかむら」で、現在の名古屋市中村区と思われる。
 千竃は、元和古活字本に「千電」とあるが、「千竃」の誤りであろう。千竃は『尾張名所図会』にもあるように正確な場所は分かっていないが、熱田の上知我麻神社のあるあたりに推定する説と、現在の名古屋市南区に推定する説がある。『尾張志』では「其地は星崎の庄 戸部 山崎 笠寺 本地 南牛毛 新井 七村なり」とあり、千竃を名古屋市南区あたりに推定し、『愛知郡誌』でもこれを採用している。現在でも南区に「千竃通」の名があり、名古屋市南区に千竃を推定するのであればこのあたりになるのであろうか。『尾張志』に「もとは本地村(名古屋市南区)あたりに坐けむを後此處に移し祭れるなるへし」とあるように上知我麻神社は千竃から熱田に移ったと思われる。また、上知我麻神社の北にある下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)も同じく千竃から移ったようである。さらに『尾張志』では、この移った際に上知我麻神社が南、下知我麻神社は北に鎮座して、上下が逆になったのだろうとしている。また、名古屋市南区本星崎町の「星宮社」には、その境内に上知我麻神社と下知我麻神社が鎮座する。『尾張志』の記述にあるのは、この両社が熱田へと移ったのであろうか。

現在の千竃通
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星の宮    『尾張名所図会』前編五巻
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現在の星宮社
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星宮社境内の上知我麻神社(右)と下知我麻神社(左)
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 日部は、名古屋市西区や名古屋市天白区などの地域に推定する説があるが、何れも不確かで詳細は不明である。
 太毛は現在の名古屋市昭和区から名古屋市瑞穂区にかけての一帯に推定する説が有力ではあるが、詳細は不明である。『和名抄』にはないが、「大宅」(おおやけ)というのも「太毛」と音の類似から同一の可能性がある。
 物部は『延喜式』神名帳に愛知郡「物部神社」が記されているが、この神社が物部に存在したと思われる。現在、物部は名古屋市千種区・東区あたりに推定する説があるが、「物部神社」が名古屋市東区にあることを考えると、そのあたりが物部になるのであろうか。
 熱田は、『和名抄』の東急本・元和古活字本には「厚田」とある。熱田の正確な場所は不明であるが、熱田は現在の名古屋市熱田区の熱田神宮周辺とみて間違いないと思われる。「厚田」ともあるので他の地域に推定する説もあるが、『和名抄』の高山本には「熱田」とあり、「厚田」と同一であろう。そこからも他の地域に推定するのは無理があると思われる。
 作良については、万葉集の中に高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」という歌があり、この「桜」は「作良」と同じである。作良の地域について詳しくは不明であるが、名古屋市南区桜本町周辺は、「桜」とあるのでこの周辺が、作良であったと思われる。また、名古屋市南区桜本町は、現在全く海岸線は見えないが、古代の海岸線は現在とは違い南区桜本町の近くまできており、年魚市潟(あゆちがた)とよばれていたことからも、万葉集に詠まれた先ほどの歌にある「桜」は「作良」と同一であり、名古屋市南区桜本町あたりを指しているものといえる。

桜田の古覧    『尾張名所図会』前編五巻
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 成海は『和名抄』に「奈留美」の訓があり、現在の名古屋市緑区鳴海町あたりが、成海のことである。また、『尾張国熱田太神宮縁起』では宮簀媛の居住地(現在の氷上姉子神社)を「成海」としていることから、名古屋市緑区大高町あたりも「成海」に含まれる可能性もある。
 駅家は高山寺本にはなく、元和古活字本に「駅屋」とある。『延喜式』兵部省には尾張国駅伝馬と記し、馬津(うまづ)、新溝(にいみぞ)、両村(ふたむら)とある。このうち「駅家」は新溝駅と同一であると考えられている。ちなみに、馬津駅は現在の津島市、新溝駅は名古屋市中区古渡町、両村駅は豊明市沓掛町二村山付近にそれぞれ推定する説が有力である。
 神戸は高山寺本にはない。また、詳細は不明である。しかし、現在、名古屋市熱田区神戸町(ごうどちょう)があり、この周辺が『和名抄』の「神戸」なのであろうか。しかし、「熱田」と「神戸」の距離が近いことは気になる。

『和名類聚抄郡郷里駅名考証』 『尾張志』 『愛知郡誌』 『尾張名所図会』 『愛知県の地名』 『角川日本地名大辞典』 『尾張名所図会 絵解き散歩』より




現在の上知我麻神社    上知我麻神社の位置
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 正門の一の鳥居を左へ行くと東向きに鎮座する。すぐ北には八剣宮が鎮座する。祭神は乎止与命である。現在、上知我麻神社は熱田神宮の境内にあるが、以前は「ほうろく地蔵」(ほうろく地蔵の位置)がある場所にあった。しかし、昭和20年(1945)に上知我麻神社は戦災で消失し昭和24年(1949)に現在の位置へと移った。
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    大国主社(おおくにぬししゃ)大黒
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    事代主社(ことしろぬししゃ)恵比寿
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by nitibotuM | 2009-02-22 18:03 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 02月 20日

雲龍山喜見寺春養院(うんりゅうざん きけんじ しゅんよういん)

『尾張名所図会』の喜見寺    喜見寺の歴史的な位置
 布曝女町(そぶくめまち)にあり、真言宗、京都の智積院の末寺である。弘治二年(一五五六)、加藤隼人佐延隆(かとう はやとのすけ のぶたか)の建立で、権大僧都 堯瑜(ぎょうゆ)が開山する。もとは僧坊が六院あり、広大な境内であったが荒廃したのを寛文七年(一六六七)に良招(りょうしょう)が再興し、智積院の末寺となった。しかし、僧坊の六院のうち残ったのは春養院のみである。境内に弘法大師の九井の1つがある。名称は不明。(補足 加藤延隆は加藤全朔(ぜんさく)とも言われる。加藤家は熱田で勢力を誇った一族であるが、その後、東加藤(本家)と西加藤(分家)に分かれ、次男であった加藤隼人佐延隆は西加藤の初代となる。ちなみに東加藤の初代は嫡男の加藤図書助順光(かとう ずしょのすけ のぶみつ)である。)



『名古屋市史』には次のようにある。
 布曝女の御不動様と呼ばれている。僧坊の六院は、慈眼院、吉祥院、延命院、春養院、甚光院、宝泉院である。寛文七年(一六六七)に、智積院の末寺となった。その後、境内の観音堂が荒廃したが、貞享三年(一六八六)に開基の加藤家の協力によって再建する。しかし、延享二年(一七四五)に僧坊の六院で唯一残った、春養院も喜見寺に組み込まれた。本尊 十一面観世音菩薩 脇士 不動明王 毘沙門天 木像  伝空海の作




現在の喜見寺    喜見寺の位置
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 真言宗智山派の寺院。名古屋二十一大師霊場の十四番である。名古屋二十一大師霊場は昭和44年(1969)より始まり、弘法大師の入滅である三月二十一日から、二十一霊場とする。札所は、一番 宝生院、二番 七寺、三番 萬福院、四番 延命院、五番 福生院、六番 長久寺、七番 東界寺、八番 常光院、九番 護国院、十番 宝蔵院、十一番 宝珠院、十二番 弁天寺、十三番 弥勒院、十四番 喜見寺、十五番 地蔵院、十六番 笠覆寺、十七番 大喜寺、十八番 海上寺、十九番 金龍寺、二十番 龍福寺、二十一番 興正寺である。

『尾張群書系図部集』 『熱田 歴史散歩』 『史跡 あつた』 『熱田の歴史』 喜見寺掲示板 より 
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by nitibotuM | 2009-02-20 21:00 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2009年 02月 19日

名古屋市農業センター しだれ梅

今年は見頃が早そう。全体的に見ると現在6分咲きぐらいだろうか。あいにく天気が悪く写真を撮るには、いまいちであった。
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by nitibotuM | 2009-02-19 20:31 | 花鳥風月 | Comments(0)
2009年 02月 19日

魔樋合(まのひあい)

『尾張名所図会』の魔樋合    魔樋合の歴史的な位置
 布曝女町から市場町へ出る南側の小さな道である。今は「まんのひあい」と呼ばれる。昔、夜中に妖怪が出て通る人を悩ませた事に名の由来がある。このあたりに、弘法大師が掘った「長橋の井」と呼ばれる井戸が当時あった。また、安井将監(やすい しょうげん)の屋敷があったと言われるのもこの場所である。『熱田町旧記』では、安井将監の屋敷跡に「今、服部小左衛門が居住也。」とある。(補足 安井将監は織田信長に仕え北区にある安井城を天正年間に築いた人物)



『名古屋市史』には次のようにある。
 弘法大師がここを参宮道と定めて、曼荼羅(まんだら)を封じたことから曼荼羅の樋合と言われるようになった。しかし、後の人が間違えて魔の樋合になったとある。



現在の魔樋合(推定)    撮影場所
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 現在、魔樋合の場所を推定するのは困難であるが、明治三十六年の『熱田築港図』と現在の地図を見比べてみると、おそらく魔樋合は、撮影場所より南の国道1号線の車道あたりだと思われる。当時の面影は松姤社を残すのみではないだろうか。
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by nitibotuM | 2009-02-19 19:54 | 尾張名所図会 | Comments(0)