尾張名所図会を巡る

nitibotu.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:尾張名所図会( 55 )


2013年 01月 29日

池殿屋敷(いけどのやしき)

『尾張名所図会』の池殿屋敷
 今、池坊屋敷とも呼ばれていて誓願寺のほとりにある。その地は広い。平大納言頼盛を池殿と呼ぶ。その母、池の禅尼は大宮司季範の伯母にあたり、ここにも居住していたことが伝わっている。平治の乱の時、頼朝は幼年であったが死刑に処せられるところを、この禅尼が清盛公に頼み罪を宥め、助命されたのは弥平兵衛尉(やへいびょうえのじょう)宗清のはからいがあったことを『源平盛衰記』・『平家物語』などに記されている。しかし、大敵の子であれば簡単に許すことが出来ないが、禅尼が強く願ったのは、この大宮司との所縁によることを知っておくべきである。



『名古屋市史』には次のようにある。
 池坊宅址は旗屋町誓願寺から全隆寺までの辺と云う。



現在の池殿屋敷    池殿屋敷の位置(推定)
e0170058_17491687.jpg
 『名古屋市史』の記述を基にすれば、上の写真周辺にあったということになるのであろうか。ただ、その屋敷自体がいつ頃まであったのかも分からないので、詳細については不明である。
 ちなみに池の禅尼は平清盛の継母にあたる。
[PR]

by nitibotuM | 2013-01-29 18:15 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 12月 31日

夢違観音(ゆめちがへくわんおん)

『尾張名所図会』の夢違観音
 馬場町にある。天台宗で御廓内(おくるわうち)の神宮寺の末。
 本尊 西明寺時頼の守り本尊。霊験いちじるしく、悪い夢を見た者がこれに祈れば、必ず応験がある。故に夢違の観音と通称する。



歴史的な夢違観音の位置 『張州雑志』(不鮮明で分かりにくいが中心に「観音 俗夢チカヘト云」とあるように見える。)
e0170058_1893090.jpg



現在の夢違観音    夢違観音の位置(推定)
e0170058_182846.jpg
e0170058_18281018.jpg
e0170058_18281591.jpg
 現在、夢違観音があった場所については、古地図を見ても正確な位置は不明である。おそらく白鳥小学校から白鳥幼稚園までの間に祀られていたと推測される。夢違観音については、『尾張名所図会』以外もほぼ同内容の記述で、『名古屋市史』においても神宮寺の管理下に置かれていたことが分かる程度である。したがって、文献からもその様子を窺い知ることは難しい。
[PR]

by nitibotuM | 2012-12-31 18:59 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 11月 28日

円融山瀧之坊(えんゆうざんたきのぼう)

『尾張名所図会』の円融山瀧之坊
 堀内町にある。天台宗で野田の密蔵院の末。天文十二年(1543)に良温法印が愛知郡古井村より移し、織田備後守信秀を中興とする。信長公が幼年の頃、この寺で手習いをしていたことが伝えられている。『宗長手記』に「大永六年(1526)三月二十七日、熱田の宮社参宮めぐりしつるに、松風神さびて誠に神代おぼゆる社内。此御神は東海道の鎮護の神とかや。宮の家々くぎぬきまで汐の満干。鳴海 星崎 杜の木のま、木のま伊勢の海み渡され、こゝの眺望たが言のはもたるまじくなん。旅宿瀧の坊興行、筑前守織田来りあはれて

 ほとゝぎすまつのはしごしの遠干潟
   神官人所望に
 うす紅葉松にあつたがたの若葉哉」と見える。

その時の興行に宗長が用いた文台が、今この坊にあって名物となっている。

本尊 虚空蔵菩薩
寺宝 信長公所持の龍の硯 七ついろは巻物一軸 妙法院常胤法親王の御筆 涅槃蔵 兆殿司の筆。
 


歴史的な瀧之坊の位置
e0170058_1129521.jpg



『名古屋市史』には次のようにある。
 もと中正院といった。開基については詳しく分からないが、古井村(現在の千種)から今の地に移した。



『張州雑志』には次のようにある。

信長公朱章
e0170058_11493746.jpg


宗長文台(宗祇文台は誤伝)
e0170058_11494728.jpg
e0170058_11495825.jpg



現在の瀧之寺    瀧之寺の位置
e0170058_11575571.jpg
e0170058_11575849.jpg
e0170058_1158450.jpg
 瀧之寺は天台宗の寺院で、昭和四十六年(1971)に「瀧之坊」から「瀧之寺」へと寺号を改めた。『尾張名所図会』にもある信長公所持の龍の硯が現存しているようである。
 また、『熱田区誌』に「この寺は、大永・永禄年間(1521~70)、宗長、紹巴、宗牧らの連歌師による、いわゆる「滝ノ坊興行」で知られる。」とある。『尾張名所図会』や『張州雑志』などからも窺い知ることが出来るように、当時この熱田周辺は今では考えられないような文人たちを魅了する景観が広がっていたのであろう。そうした中で、当寺が中世の熱田における文化的拠点として機能していたと考えられる。
[PR]

by nitibotuM | 2012-11-28 12:13 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 10月 31日

禅徳山大法寺(ぜんとくざんだいほうじ)

『尾張名所図会』の大法寺(右上の方に小さく)
e0170058_12205934.jpg
 中瀬町にある。臨済宗の妙心寺末。元和三年(1617)、藤田民部少輔安重の建立。本尊は釈迦仏で運慶作。
 喝食石 門前にある。高さが二尺ほど地上に出ている。諸願にしるしがあるといわれているが、その由来は分かっていない。



歴史的な大法寺の位置
e0170058_12203171.jpg



『名古屋市史』には次のようにある。
 此地は寿正寺の古跡であった。藤田民部少輔安重が、その亡き父母の為に地を買って建立した。開山は舊山宗石、二世は東雲宗震、三世は獨園宗祇。本尊は正観世音菩薩立像(黄金像で、甚目寺の本尊であったと伝わる。脇士には地蔵菩薩、不動明王の各木立像。もとの本尊は運慶作の釈迦牟尼仏木像であったが、徳源寺再興の時に同寺の本尊と成った。)



『張州雑志』には次のようにある。

雨滴天目
e0170058_12482158.jpg


茶台
e0170058_12484562.jpg


芦屋釜
e0170058_1249659.jpg




現在の大法寺    大法寺の位置
e0170058_18174830.jpg
 現在、大法寺は南区に移転しているようである。移転した経緯などの詳細は不明であるが、山号と寺号が『尾張名所図会』と一致しているので、移転したことは間違い無さそうである。
 喝食石についても現在どこにあるのかは不明である。
[PR]

by nitibotuM | 2012-10-31 18:29 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 09月 18日

金宝山地蔵院(きんぽうざんじぞういん)

『尾張名所図会』の地蔵院(上の方に小さく)
e0170058_16233366.jpg
 中瀬町の石橋という所にある。真言宗で長野村(現在の愛知県稲沢市)万徳寺の末。当山は人皇九十四代、花園院の御宇、文保元年(1317)に牧権太輔奉忠(まきごんだいふともただ)の室が冥福の為に旗屋村に開基して、全海法印を請じて開山した。奉忠は鎌倉殿とゆかりがあったので、その室は力王子の称号を、そして旗屋村に寺地を給わった。その砌(みぎり 場所)は寺門も広大にして、大伽藍の仏場である。ところが星霜二百五十余年を経て大きく破壊され、ほとんどの基址(きし)が失われた。時に天正四年(1576)に今の地に移し、政堯法印を中興の開山とする。

鎮守 白山権現
寺宝 足利尊氏公像 地蔵菩薩画像 寄進状


歴史的な地蔵院の位置
e0170058_16263848.jpg



『名古屋市史』には次のようにある。
 地蔵院は亀命寺(または帰命寺)と言った。文保中、熱田の祭主、牧権太夫奉忠の後室、法号勝仏が一宇を建立。亀命寺と号したが文和中再興して、地蔵院と改めた。
 古来、熱田における真言宗の寺院の頭と成る。



『張州雑志』には次のようにある。

力王子勝仏の像
e0170058_1626545.jpg


尊氏の像 土佐光信筆
e0170058_1627840.jpg


尊氏自画自讃地蔵の像
e0170058_16271518.jpg



現在の地蔵院    地蔵院の位置
e0170058_1629351.jpg

e0170058_16414218.jpg
 現在、地蔵院は真言宗豊山派の寺院であるが、外観からは寺院としての活動がされているのかは不明である。
 また、『尾張名所図会』などにある足利尊氏公像であるが、『史跡あつた』によれば、昭和十二年の美術研究第六十七号の谷信一氏の研究によって、足利尊氏ではなく足利義尚と改められたとある。また作者についても伝承では土佐光信とさせるが、その正否は不明であるとする。
[PR]

by nitibotuM | 2012-09-18 16:33 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 08月 23日

金鼇山天祥庵(こんごうざんてんしょうあん)

『尾張名所図会』の金鼇山天祥庵
 中瀬町にあったが今は廃す。守山村の木ヶ崎、長母寺の末。もと長母寺の塔頭で、その境内にあったのを、総見寺の梁南和尚がここに移した。織田信忠卿に仕え、二条御所で討ち死にした下方弥三郎の二男が僧となって住持していたが、三位中将忠吉君の時に、父が死去して世継ぎがなかったので、この僧を還俗させて家督を賜って、下方左近と名乗った。


歴史的な天祥庵の位置
e0170058_1535494.jpg


『張州雑志』には次のようにある。
 臨済宗五山派(東福寺派)、天正年中開基故に天正庵と号す。後に天祥と改む。
 長母寺、東福寺末と成ける程に此寺も其頃は関山派下と成て有けるか是も古の如く長母寺に属し五山派下と成れり。



現在の天祥庵(推定)    天祥庵(楞伽院再建予定地)の位置
e0170058_1729640.jpg
e0170058_17291244.jpg
 現在、天祥庵は『尾張名所図会』にあるように廃寺となっている。また、『名古屋市史』の廃寺の項目にも天祥庵はあるが、ほぼ『尾張名所図会』や『張州雑志』と同様の記載となっている。ただ、『名古屋市史』や『尾張志』などには、宝樹山楞伽院(りょうがいん)とあって、古地図の位置や『張州雑志』の天祥庵と『名古屋市史』の楞伽院はともに長母寺末で開山、耕月とあるので天祥庵と楞伽院は同一であると思われる。推定ではあるが明治頃に寺号が改められたと思われる。ただ、その詳しい経緯などは不明である。また、『名古屋市史』には楞伽院が尼僧地となすともある。
 現在、天祥庵と楞伽院の詳細な場所は不明であるが、おおよその跡地と思われる場所に上の写真で分かるように楞伽院再建予定地とある。ただし、今後どのような予定で再建されるのかは不明である。
[PR]

by nitibotuM | 2012-08-23 19:12 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 07月 20日

織田侍従信孝出生地(おだじじゅうのぶたかしゅっしょうち)

『尾張名所図会』の織田侍従信孝出生地
 このあたり社家の宅にて出産された。永禄元年、一ヶ月の内に、信長公の御男子が二人出産されたが、一人は三助殿信雄公、母公は生駒氏で兄信忠と同腹であるので、尊敬され出産の事は早速公の台聴(たいちょう)となった。よって二男に定められた。今一人は三七殿信孝、熱田神人岡本の家で、三助殿より二十余日早く出産したのだが、その母は坂氏の女であって、凡下(ぼんげ)で賤しいものであったので、即時には披露されなく、久しくして公がお聞きになったので、信雄公より兄であったのだが三男に定められた。これによって信孝は常に鬱憤(うっぷん)を含み持ち、我は大臣の二男であるのだが、不幸にして信雄に越され、三男になった事、無念の最第一であった。世に三七殿とだけ称すると、無官人であると思われるが、『歴代土代』に織田信孝天正五年十月七日、従五位下にて侍従に任じられたことが記されている。明智日向守光秀、信長公父子を弑(しい)し、なおまた信孝を討とうと攻めのぼる所を羽柴秀吉・池田信輝が、信孝に先立って光秀を誅(ちゅう)す。ここに信孝・信雄の天下の争いがおこり、信雄は当国清洲に移って、信孝は美濃の岐阜に移って合戦になったが、信孝の敗軍になったことが『勢州四家記』に見え、『天正記』の柴田勝家滅亡の條に三七信孝

   たらちねの名をばくたさじ梓弓いなばの山の露ときゆとも

と、一首の和歌をつらねて自殺したことが記され、『豊鑑』には、信孝岐阜を落ちて船に乗り、知多郡野間の内海に到って、そこで自害したことが記されている。その性質は知勇義猛で、信雄公よりも才徳にすぐれてはいたが、かの豊臣氏の峻鉾(しゅんぼう)に妨げられ、本意を得られなかったのは、誠に口惜しい次第である。





 織田信孝の出生地については『名古屋市史』などには見当たらず詳しくは不明である。ただ、『尾張名所図会』でも少し触れられているが、信孝の自害した知多半島の野間大坊には、現在も源義朝の墓と共に信孝の墓がある。
e0170058_18261570.jpg
e0170058_18262619.jpg
e0170058_18263631.jpg
e0170058_18264675.jpg

[PR]

by nitibotuM | 2012-07-20 18:26 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 06月 29日

沢野山西福寺(たくやざんさいふくじ)

『尾張名所図会』の西福寺
 須賀町高御堂にあり。浄土真宗大谷派で、三河の野寺村本証寺の末。本堂の本尊阿弥陀如来は運慶の作。昔、百合若大臣(ゆりわかだいじん)が堂上より放鷹したことにより、鷹御堂(たかみどう)といっていたのを後世に高御堂と呼ぶようになったという伝承があるが定かではない。貝原篤信(かいばらあつのぶ)の『岐蘇路の記』によれば、百合若という人は古書にはないので、日本武尊を誤ったのであろうか。およそ東国と九州にある百合若大臣の古跡といわれる場所は、必ず日本武尊が通ったところであると論じているので、この熱田の地に百合若の古跡があるのは頗(すこぶ)る拠(よりどころ)があるように思われる。しかし、古くから越前の幸若の舞曲に、百合若大臣の舞があってその事実をいう、また、豊後国船居、今の府内にその古跡があって、そこの菖池山万寿寺に百合若とその娘の万寿姫の位牌などを安置しているので、百合若大臣は日本武尊とは全くの別人といえる。


歴史的な西福寺の位置(円福寺の北)
e0170058_15183385.jpg


『名古屋市史』には次のようにある。
 中瀬町にある。大谷派本願寺末。もとは熱田旗屋町沢野にあった。文亀中に僧正了(俗称は伊勢氏、伊勢の二見浦の社人)の建立で、天正二十年(1592)に愛知郡丸山村に移り、元和七年(1621)に御器所村に移り、寛永十年(1633)に熱田須賀町に移り、寛延元年(1748)に今の地に移る。



現在の西福寺    西福寺の位置
e0170058_15512244.jpg
 現在、西福寺は真宗大谷派の寺院で、白鳥三丁目になっている。戦後、国道19号線の拡張などで現在地に移った。
 『尾張名所図会』に「須賀町高御堂」とあるが、『名古屋市史』には中瀬町に「亀井山(円福寺)の北より西に折れて横町あり、高御堂町と称せり」とあるので、高御堂があったのは「須賀町」というよりは「中瀬町」とした方が、確証はないが妥当だと思われる。その高御堂がどこにあったのかは推測するほかないが、『名古屋市史』の記述からすれば、おそらく現在の国道1号線と19号線の交差する付近であると思われる。
 ただ、高御堂や百合若大臣に関する伝承は不明な点が多い。西福寺は『名古屋市史』によれば多く移転しているようで、当地に初めからあったわけではない。そうなると、西福寺と高御堂の伝承が生まれたのは、かなり後になってからであると思われる。もしくは、高御堂という町名が先にあり、そこに移転してきた西福寺と百合若大臣の話を結びつけて、そのような伝承ができあがったのかもしれない。
[PR]

by nitibotuM | 2012-06-29 16:41 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 06月 11日

亀井山円福寺(かめいざんえんぷくじ)

『尾張名所図会』の円福寺
e0170058_18191851.jpg
 上知我麻神社(源太夫社)の西にある。時宗、京都四条の金連寺の末寺。亀井道場とも呼ばれている。当寺はもと天台宗の古刹であったが、開山の厳阿上人が足利家の一族で比叡山にいたが訳あって、遊行他阿上人に帰依して宗を改め、この寺の中興として住持した。元応元己未(1319)の年より足利治部大輔尊氏公(あしかがじぶのたいふたかうじこう)の帰依があって、坊舎数十宇を建立、寺領、宝物などの寄付があったけれども、数度の回禄(かいろく 火災)があって、灰燼(かいじん)となった。その後、普広院義教公(ふこういんよしのりこう)が富士御覧のため御下向の時、この寺に三日、御逗留され、和歌・連歌などの会があって、その時の懐紙・短冊などが今でも残っている。厳阿は知徳をそなえ、さらに和歌・連歌などにも長け、この寺で詠んだ呼続浜の歌は『新後拾遺集』に入っており、世間の膾炙(かいしゃ 評判)となった。厳阿は当寺に三十年ほど住んだ後、延文五年庚子(1360)九月三日に洛陽の四条道場、金連寺に転住して、応安三年庚戌(1370)九月二十八日に遷化(せんげ)した。 

本尊 阿弥陀如来 熱田大神宮の神作で厳阿にお授けになった霊像である。脇侍の毘沙門天は竜宮から現れた。また、大黒天は踏み込みの大黒といわれ、左足を踏み出している像である。脇壇の十一面観音は泰澄和尚の真作である。
観音堂 大日如来及び三十三所の観音を安置している。
開山堂 厳阿上人の像を安置する。
鐘楼 境内にある。
鎮守社 地主権現を祀る。
亀井 本堂の北にある。厳阿上人が人を雇って井戸を掘らせた時に、更に水が湧き出ることはなかった。穿掘(せんくつ)する事、三十五日で、井の底に不思議なものが掘り出された。厳阿が井戸の中に下って見ると、亀の甲羅が地面の底にあったが、その広大さは計り知れない。厳阿はこの地が本当に蓬莱であることを知り、その井戸を封じて、亀井と名付けて山号の銘として、霊地とした。

寺宝 百韻連歌懐紙 永享四年九月十三日 普広院殿自筆。発句は厳阿、脇は義教公、第三厳阿。  短冊 厳阿自詠。 その他多数の寺宝がある。

 芝居地 明暦二年(1656)当寺境内に於いて、芝居御免許があり、奥山清九郎、神岡勘弥というような役者が狂言を興行した。これが当国の芝居の始まりという。ちなみに、それより前の慶長十五年(1610)名古屋城の御造営の時、与治兵衛という者が、京都から女をたくさん連れて熱田に来て、町外れに桟敷(さじき 見物席)を設けて、勧進歌舞伎を興行した。その時、加藤清正の足軽二人が熱田へ使いにやってきたて、この芝居をムシロの囲いの隙間から覗いた。これを見つけた与治兵衛の奉公人が棒で足軽の顔を突いた。足軽はおとなしくその場所を去って、お金を払って鼠戸(ねずみど)から見物席に入っていったが、舞台に勢いよく上っていって、狂言師一人、女二人を切り倒して、さらに楽屋にいた与治兵衛までも手傷を負わせてその場を逃げ去った。与治兵衛はかろうじて命は助かったので、この事を加藤清正に訴えた。与治兵衛の訴えは当然の事で、足軽は見つけ次第、成敗するとして、女は望むだけの償いを与えるので許して欲しいと、さらに舞台の破損料、そして、与治兵衛の治療費も頂いた。女も前より優れた者を選んでくださったという話が、『続撰清正記』『尾陽雑記』などに見える。芝居の旧地はどこになるのであろう。熱田の町外れにもあったという事を書き記しておく。

円福寺の歴史的な位置
e0170058_1856423.jpg


『名古屋市史』には次のようにある。
 往古は洲崎の毘沙門堂と呼ばれていた。最澄が熱田神宮へ参籠の際に建立した。
 織田信長、織田信忠から諸役免除の書、織田大和守逵勝(みちかつ)から禁制の札を給わる。
 永正、承応の二度にわたる火災にあう。
塔頭には長光院、清浄軒、松徳院、清光院、竹光院、蓮福院、宝蔵院、竹等院、称名院、宝珠庵の十所であったが今はすべて廃している。末寺には、盛清寺(市場町)、姥堂(伝馬町)、光明寺(現在の岡崎市矢作町)の三寺がある。


『張州雑志』には次のようにある。
 十一面観音、是は行基の作にて昔、沢観音とて熱田四観音の一なりし荒廃の後、今の妙安寺建立の時、別に七観音を安置し此の像は円福寺にあづけ置しまゝ、爰にすへまいらす。(『尾張名所図会』に「泰澄和尚の真作」とある十一面観音のことか)


e0170058_18195428.jpg
開山厳阿上人像(「金連寺に移られける時、自の像を彫し」とある)

e0170058_18201371.jpg
観音石像 将軍田村丸、鏃(やじり)を以て此の像を彫刻す

e0170058_18202732.jpg
大黒天の像 毛利新助良勝、夢想の告有りて戦場に於いて彫刻

e0170058_1821075.jpg
大黒天の像 伝教大師の所造(『尾張名所図会』にもある踏み出し(踏み込み)の像)

e0170058_18211477.jpg
一遍上人網衣

e0170058_18212391.jpg
伝小野小町作(境内の地蔵堂にあったのであろうか)


現在の円福寺    円福寺の位置
e0170058_128846.jpg
 
e0170058_1282961.jpg
 現在、円福寺は時宗の寺院である。名古屋市内では当寺とその影響下にある姥堂が唯一の時宗の現存する寺院となっている。ちなみに時宗の祖、一遍は西山派の祖である証空の弟子の聖達の弟子になる。つまり、証空の孫弟子になり、法然から見れば、ひ孫弟子にあたる。そういった経緯から、時宗の教義は西山派の影響を指摘できる。また、熱田は浄土宗でも正覚寺を中心とする西山派の影響が強い地域であるといえ、時宗の円福寺が建立されているのはそういった状況も関係しているのかもしれない。
 『尾張名所図会』と『張州雑志』は、円福寺についてかなり詳しく記されている印象を受ける。もちろん当寺は、足利氏ゆかりの由緒ある寺であるので当然といえば当然であり、現在でも格式ある寺院として『尾張名所図会』にある連歌の懐紙などを残すが、多くの寺宝は戦災によって焼失した。また、当寺は国道沿いにあり、戦後の都市開発の中で、『尾張名所図会』にあるような大伽藍は姿を消した。
[PR]

by nitibotuM | 2012-06-11 18:39 | 尾張名所図会 | Comments(0)
2012年 06月 04日

景清社(かげきよのやしろ)

『尾張名所図会』の景清社
  表大瀬古(おもておおせこ)の東の方にある。平家の勇士、悪七兵衛尉景清(あくしちびょうえのじょうかげきよ)が大宮司の婿であったこと、主家が没落した後に、身をやつして熱田に潜居していたこと、このような旧跡が所々にある。木下実聞が書いた『厚覧草付録』にもあって、八剣宮の東北の方にも、景清屋敷と呼ばれている旧地がある。『東鑑』『源平盛衰記』『平家物語』等の実録に、景清が熱田にいることは見えないが、頼朝公の大敵の余党を見逃して置いていたのは、ともに大宮司の縁者である為である。
 『長門本平家物語』に景清が建久六年(1195)頼朝公に降参して、鎌倉の八田知家(はったともいえ)の家にいたが、翌年三月七日に死去したとある。


景清社の歴史的な位置    『尾張国町村絵図』「熱田」の一部
e0170058_1532411.jpg
  中央に小さなピンク色が二箇所並んでいる右側が「景清社」


『名古屋市史』には次のようにある。
 寿永元年(1182)の創建。祭神は平景清。例祭は九月十七日。
 景清の宅跡と言われる所は三所ある。1.熱田南新宮社の北、清雪門の付近。2.熱田大瀬子3.古渡の新町の内、新橋より北へ入る町屋の西角 以上、どれが真かは分からない。
 景清は大宮司季範の伯父とも婿ともいわれる。また、謡曲には遊女と相馴れ、一人の子をもうけた。浄瑠璃には、阿古屋という遊女と馴れ染むともある。
 門前町浄久寺の宝物に千手観音があって、景清が自ら矢尻で彫った小仏が納めてある(胎内仏)。また、位牌があり水月景清大居士、健保二甲戌年八月十五日とある。



『尾張名陽図会』の景清藪
e0170058_19423185.jpg
 古渡にあった景清の旧地を伝えている。(下に小さく景清藪とある)




現在の景清社    景清社の位置
e0170058_16523892.jpg
e0170058_16524415.jpg
e0170058_16525313.jpg
 『尾張名所図会』・『名古屋市史』の記述や『尾張志』の知多郡に「景清宅」を取り上げて「当国に景清の宅跡といふ所の多きは、池大納言(平頼盛)の尾張守たりし時、其目代に宗清、景清等在国せし」とあるように、景清は熱田をはじめこの地方に何らかの関わりを持っていたようである。ただ、全国各地に景清の旧跡は残っており、この地方に残る旧跡もそうした伝承の1つなのであろう。
 景清は『平家物語』にその勇猛な姿が記され、また、叔父の大日房能忍(だいにちぼう のうにん)を殺害してしまったというような話から『尾張名所図会』にもあるように「悪七兵衛」と呼ばれ恐れられていた。こういった「悪」というものまでも畏敬の念をもって、祭神として祀るというのは日本的な思想なのかもしれない。粗暴的な一面を見せるスサノオを祭神としたり、また、仏教においても有名なところでは『法華経』「提婆達多品」で釈尊に迫害を加えた提婆達多までも授記(仏となる約束)されるというように、日本では西洋の神のように完全無欠の唯一絶対ではなくとも神仏になれるという思想を受け入れやすいといえる。こういった視点で景清社を捉えてみるのも面白いかもしれない。
[PR]

by nitibotuM | 2012-06-04 19:26 | 尾張名所図会 | Comments(0)