『尾張名所図会』の魚市問屋
木之免浦より東の浜辺で毎日、市が行われている。織田信長が清洲城にいたころから、この浜には数件の問屋があって毎日、清洲まで魚介を運んでいた。いつ頃からここで市があるのかは分かっていないが、寛永の頃、問屋や株の制度が定まると、権左衛門・仁左衛門・三左衛門・甚三郎・又三郎・七左衛門の六家を中心に商いをして繁盛した。市は、毎日、朝市と夕市の一日二回行われ、多くの魚介が集まった。魚介は尾張はもとより、周辺の色々な地域から船で運び込まれる。また、三河の吉田(現在の愛知県豊橋市)あたりからは徒歩で荷物が運ばれる。これらを六軒の問屋がたくさん運ばれる魚介を即座に売りさばく。多くの人が尾張をはじめ美濃・信濃からも集まり徒歩で荷物を送る。その賑わいは他に見られない。
魚市問屋(木之免町)の歴史的な位置
現在の熱田魚市場跡(現在の大瀬子公園)
大瀬子公園の位置
昭和24年(1949)に名古屋中央卸売市場が名古屋市熱田区にできると熱田魚市場は姿を消し、現在、その跡は大瀬子公園となっている。また、以前はこのあたりに、かまぼこ屋も多くあったのだが、現在はその数も減った。