『尾張名所図会』の間遠渡
この熱田宿の湊から伊勢の桑名までの七里を船で渡る。壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が東国に逃げるため伊勢から尾張へと船で渡った時、遠く時間が掛かったので「間遠」と名付け、それが今に伝わったものである。しかし、この海上七里の船旅は尾張と伊勢の美しい景色が続き、遠さを感じさせない。
現在の間遠渡
間遠渡は「七里の渡し」、「宮の渡し」などとも呼ばれ、東海道としてこの船着場が始まったのは元和2年(1616)だといわれている。また、この湊の管理は船奉行を兼ねた熱田奉行が行い、その配下の船番所が厳しく旅人を監視していた。『尾張徇行記』に「船番所ハ御関所同前ナレバ」とあり、当時の監視の厳しさが分かる。
ちなみに文政8年(1825)の船賃は、乗り合い1人の場合68文だったそうである。そして、船旅の所要時間はおおよそ4時間前後であった。
『熱田 歴史散歩』 『史跡 あつた』より
東海道七里渡青鷺川旧碑
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