『尾張名所図会』の加藤隼人延隆入道全朔
加藤延隆は西加藤の祖でである。西加藤は図書(東加藤)より裕福であったが、福島正則との対立によって失脚し、その子孫は旗屋に居住している。加藤延隆の末孫と、加藤与三左衛門宗貞(延隆の養子、家勝の子供)の末孫も共に旗屋に居住する。また、加藤延隆の子、隼人景隆の子供は、隼人景延、伝蔵景好、彦宗景盛と男子が多く、その末孫も旗屋に居住する。西加藤は徳川家康の文書などを所持しており今に伝える。
西加藤(隼人佐、喜左衛門)
延隆―資景―景延―宗弘―景次… 『尾張群書系図部集』・『名古屋市史』より
L家勝(養子)―宗貞…
『名古屋市史』には次のようにある。
西加藤の屋敷は初め大瀬子町にあって城ノ内と呼ばれていた。その後、東脇村(現在の伝馬1丁目)に移って、さらに寛文九年九月に旗屋町に移った。
歴史的な西加藤宅(加藤喜左衛門宅 地図は喜右エ門)の位置
現在の西加藤宅
西加藤宅の位置
西加藤の屋敷跡と思われるところは、旧熱田区役所の場所である。しかし、この場所には現在、当時の西加藤の屋敷跡を思わせるようなものは残っていない。
西加藤家は龍珠寺と
喜見寺を建立している。
西加藤屋敷跡の前に残る二之鳥居跡