『尾張名所図会』の加藤図書助順盛
加藤氏は長く熱田の地侍として、精進川の東南の岸である羽城(はじょ)に邸宅を構えていた。徳川家康が幼年の頃、この加藤順盛の屋敷に幽閉されていたのは有名な話である。
桶狭間合戦の時、織田信長が熱田の宝前で願文を捧げ戦勝を祈願した。そして、信長は加藤順盛を呼んで、酒のお酌をさせた。その際、信長は「この戦に勝とう(加藤)」といったといわれる。そして、出陣の時に信長は順盛に人々を呼び竹竿を持って付いてくるようにと命じた。(人数を多く見せる計略)初めは七十人ほどだったが、最期には二百人ほどになっていた。しかし、到着した頃には今川義元は討ち死にしていた。
徳川幕府が始まると加藤氏は知多郡加家に知行地を得ている。この加藤を東加藤と呼んでいる。
東加藤(図書助)の系図
景繁―順光(東加藤)―順盛―順政―武公―順正… 『尾張群書系図部集』より
L延隆(西加藤)…
『名古屋市史』の羽城
「むかしのカキアケ城の跡を加藤図書第宅とす、故に羽城と云う」(『尾張徇行記』)とある。また、羽城は『長州志略』に葉上とあり『尾張地名考』には端所や端瀬などとも記すとある。
歴史的な羽城(加藤図書助宅)の位置
現在の羽城(加藤図書助宅)
羽城(加藤図書助宅)の位置
精進川が無くなり、羽城は当時の面影が全くない。しかし、写真のように現在でも東加藤の屋敷跡の地が残っている。以前は、このあたりは羽城町といっていたが、現在では伝馬2丁目となってしまい、歴史的な「羽城」という地名は無くなった。
また、『史跡 あつた』には『尾張名所図会』で、順盛(東加藤)だけが信長に酒のお酌したように書かれているのは誤りであると記されている。延隆(西加藤)も信長に酒をお酌しており、その時の杯が西加藤の家宝となって今に伝わっている。なお『名古屋市史』には、大正2年の陸軍特別大演習を行った時にこの西加藤に伝わる杯を模造して記念品として配ったとある。
東加藤家は
実相院と
海国寺を建立している。
羽城の名を伝える羽城山浄覚寺と羽城歩道橋