尾張名所図会を巡る

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2009年 03月 01日

裁断橋(さいだんばし)

『尾張名所図会』の裁断橋    裁断橋の歴史的な位置
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 伝馬町の東にあり、精進川に架かる橋である。今、「さんだが橋」ともいわれる。また、昔、ここに裁断所があり政務を行っていたのでこのように名付けられたとも言われる。または、精進川では「夏越しの祓い」が行われ、そこから「そうずが橋」が転じて裁断橋となったとも言われている。
 また、『日本霊異記』(にほんりょういき)や『今昔物語』には次のような話がある。
 

 尾張宿禰久玖利(おわりのすくねくくり)は、聖武天皇が国を治めていた頃の人で、尾張国中嶋郡の大領(郡長官)だった。久玖利の妻は、愛知郡片蕝里(かたわのさと)に住んでいた女で、強力(ごうりき)の僧、道場法師の孫娘である。この妻は、夫に逆らわず、物腰が柔らかで、織物が得意ですばらし着物を夫に着せていた。
 
 この時、その国の国司は若桜部(わかさくらべ)という者だった。この国司が久玖利の着ている美しい着物を見て取り上げて、まったく返す素振りがない。仕方なく家に戻ると、妻に「あなたはその着物を惜しく思いますか。」と聞かれたので、久玖利は「おまえの作った着物だから、たいへん惜しいよ。」といった。すると、それを聞いた妻は、「では、私が取り返してきましょう」とすぐさま国司の館に走っていった。
 
 さっそく国司に「着物を返してください。」と訴えた。しかし、国司は逆に怒ってしまって「引きずり出せ。」と命じた。しかしこの妻、何人がかりで引きずり出そうとしても、まったく動かない。それどころか妻は、国司のいる床を両手で持ち上げると、国司をそのまま門の外に運び出して、「着物を返してくださいますね」と迫ったので、国司もさすがに恐れおののいて、その着物を返した。
 
 久玖利の父母はこの事件によって国司に恨まれ、あとで仕返しされると思い大変怖がった。そのため、二人を離婚させて、妻を実家に送り返してしまった。
 
 ある時、実家に戻った女は草津川(そうづがわ)で洗濯をしていた。その時に、その川を通る大きな商船の上から、商人達が女をからかった。女は黙って無視していたが、あまりにひどいので、 「人をあざければ、その顔をぶつぞ。」と怒った。商人は女の言葉に怒り、女の顔を殴りつけようとした。 しかし、女は川へ入り、船をつかむと荷物を載せたまま引っ張り、船を半分ほど岸へあげてしまった。船主はどうしようもないので人を集めて、船から荷物を下ろし、やっとの事で川に浮かべると、また荷物を載せて逃げようとした。女は、「無礼な事を言うから船を引きあげたのだ、簡単には助けないぞ。」と言うと、荷を載せたまま今度は船を一町ほど引きあげてしまった。
船に乗っていた人たちは恐れて、「すまない事をした、許してくれ。」と謝った。女はそれを聞くと許し、船を戻してやった。後で船を五百人で力を合わせても動かそうとしたが全く動かなかった。 

 さて、この話に出てくる「草津川」は、「僧都川」(そうずがわ)や「三途川」(さんずがわ)の音訓がよく似ているので、この橋の由来と何か共通点があるのかもしれない。

『尾張名所図会』の久玖利が妻の大力 舟を引上る図
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 また、裁断橋の擬宝珠には漢文と仮名文字の銘が彫ってある。
    
  熱田宮裁談橋。右檀那意趣者。掘尾金助公。去天正十八年六月十八日。於相州小田原陣中逝去。其法名号逸岩世俊禅定門也。慈母哀憐余。修造此橋。以充三十三年(卅三年)忌普同供養之儀矣。

 てんしやう十八ねん二月十八日におだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるい(落涙)ともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人念仏申したまへや、三十三年(卅三年)のくやう也。

 このように仮名でも彫ってあるのは、橋を通る誰が読んでも分かるようにとの老いたる母の気持ちの表れである。その母の気持ちを思うと実に辛い。



『名古屋市史』の裁断橋
 裁断橋は裁談橋、讃談橋、斉淡橋などとも書く。俗に御姥子橋(おんばこばし)または、サンダガ橋という。長さは十間、幅三間一尺の石礎木製である。この橋の名が文献に初めて見られるのは、永正六年(一五〇九)の『熱田講式』や享禄二年(一五二九)の『熱田総図』などである。




現在の裁断橋    裁断橋の位置
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 精進川が大正15年(1926)に埋め立てられ、新たに新堀川となった。それにより、裁断橋もその役目を終えた。以前、裁断橋があった場所は、現在、都市開発の中で大きく変わり、精進川の面影や当時の橋を見ることはできない。わずかに復元された裁断橋と2階には姥堂が残るのみである。なお、精進川の由来について『尾張徇行記』には「此川ニテ祠官御祓ヲスル故」とある。
 裁断橋が出来た時期については詳しく分かっていない。しかし、『名古屋市史』にあるように16世紀の文献にはその名が見られるようである。
 また、『尾張名所図会』にもある裁断橋の擬宝珠の銘にあるのは、天正18年(1590)に小田原の役で死去した堀尾金助(ほりお きんすけ)という18歳の息子の菩提を弔うために、33回忌の元和8年(1622)に母が裁断橋を修繕した際のものである。銘については上に記したので、詳しくは省くが「いつがんせいしゆん」とは漢文の方にある「逸岩世俊禅定門」という堀尾金助の戒名のことである。しかし、銘にある「後のよの又のちまで、此かきつけ(書き付け)を見る人念仏申したまへや、三十三年のくやう(供養)也。」という母の気持ちを思うと、わずかに裁断橋の復元が残ってはいるとはいえ、交通の中心は国道1号線に移り、人の往来の減った旧東海道の町並みを見ると寂しさを感じる。その一方で、400年以上も語り継がれる母の気持ちには感慨深い。
 また、堀尾金助のゆかりの地である愛知県丹羽郡大口町には、彼の供養塔、そして、裁断橋と姥堂が復元されている。


堀尾金助の供養塔がある 大香山 桂林寺    桂林寺の位置
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 左は堀尾吉晴(ほりお よしはる)の供養塔 右が堀尾金助とその母の供養塔    堀尾吉晴は堀尾金助の父だと言われている人物(諸説あり)



復元された裁断橋    復元された裁断橋の位置
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堀尾吉晴邸跡    堀尾吉晴邸跡の位置
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by nitibotuM | 2009-03-01 19:30 | 尾張名所図会 | Comments(0)


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