尾張名所図会を巡る

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2009年 02月 16日

布曝女町(そぶくめまち)

『尾張名所図会』の布曝女町    布曝女町の位置(地図では布瀑女町)
 市場町の東にある。八剣宮からは南東になる。曾福女(そぶくめ)ともいわれる。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の途中にこの場所を訪れた時、川辺で布をさらした美しい女性が一人いた。その女性の名は宮簀媛(みやずひめ)である。(この時、宮簀媛は耳が聞こえない振りをしたと言われている。)その後、日本武尊と宮簀媛は結ばれた。このような話から「布曝女」という名が付いたと言う事である。

 また、『名古屋市史』では、布曝女の由来について宮簀媛が裁縫をした場所、また、猿猴庵の随筆によれば布をさらした場所であったなどの説も紹介している。


日本武尊から宝剣を受ける宮簀媛命  『尾張名所図会』前編三巻
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 『尾張国熱田太神宮縁起』によると、宮簀媛は父が乎止与命(おとよのみこと)、母が真敷刀婢命(ましきとべのみこと)で、建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹である。また、『日本書紀』では宮簀媛だが、『古事記』では美夜受比売(みやずひめ)とあり、尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の祖となっている。


 日本武尊と宮簀媛の出会いとその関係については『日本書紀』・『古事記』・『尾張国熱田太神宮縁起』などに記述があるが、内容はそれぞれで若干違う。それらをまとめて簡単に記すと次のようになる。


 景行(けいこう)天皇の時代に東国の平定を命じられた日本武尊は、まず伊勢神宮に詣でた。そこで、姨(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と燧袋(ひうちぶくろ)を授かった。そして、尾張の氷上(ひかみ)の里(現在の名古屋市緑区大高)に至り、尾張氏の宮簀媛と出会い、東征を終えた後、結婚することを約束して、東国に向かった。その後、日本武尊は駿河国で敵に囲まれて、野火により焼き殺されそうになったが、倭姫命から授かった剣で草を薙(な)ぎはらい、燧袋の口を開けると、火は敵に返り、敵を焼き亡ぼした。その後、天叢雲剣は名を改め草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれた。そして、常陸・陸奥などの敵を征伐し、信濃を通って尾張の宮簀媛のところへと戻った。さらに伊吹山の悪神を退治するために向かったが、草薙剣を宮簀媛に託した(上の写真)まま向かったので、伊吹山の神にたたられ伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなった。


  『古事記』には次のような日本武尊の最期の歌がある。
嬢(おとめ)の 床の辺(べ)に 我が置きし 剣(つるぎ)の大刀(たち) その大刀はや
 宮簀媛と草薙剣への想いを詠んだ歌であろう。その後、亡くなった日本武尊は白鳥となって、飛んでいき留まったところに御陵を造った、それを白鳥御陵という。


 日本武尊が亡くなった後の宮簀媛については、『尾張国熱田太神宮縁起』に次のような記述がある。
 宮簀媛は日本武尊との約束を守り、草薙剣をずっと大切に守ってきたが、自身の衰えを感じるようになった。そこで、一族で話し合った結果、熱田の地に草薙剣を祀ることとした。そこが熱田の社である。
 

 この時、「熱田」の名の由来を『尾張国熱田太神宮縁起』は次のように記し、興味深い。
楓樹(ふうじゅ)一株あり。自然に炎焼(えんしょう)し水田の中に倒れて光焔(こうえん)銷(き)えず。水田尚ほ熱し。
 これは熱田の語源の1つとされている。語源の由来については、この他にもあるので、また紹介したい。


 
現在の布曝女町(推定)     撮影場所
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 明治四年に布曝女町は市場町と合併して無くなったので、町名としての布曝女町は現在、存在しない。このあたりは、都市開発や国道1号線の影響で大きく変化しているので、以前あった布曝女町の面影を探す事は難しいが、江戸時代の地図と明治時代の地図から推定すると上の写真のあたりが布曝女町になるのではないだろうか。現在の神宮2丁目である。
 ちなみに市場町の名は、毎年、12月25日から大晦日まで市が出ていた事に由来すると、『熱田町旧記』にはある。また、1月5日から初市が始まる。

『日本書紀』 『古事記』 『尾張国熱田太神宮縁起』 『熱田町旧記』 『熱田 歴史散歩』 『熱田区誌』 『ヤマトタケル』 より
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by nitibotuM | 2009-02-16 21:55 | 尾張名所図会 | Comments(0)


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