2015年 05月 13日
尾張氏は、尾張国の国造家として、同国を中心に勢力を誇った古代の地方豪族である。また、『尾張国熱田太神宮縁起』に「海部はこれ尾張氏の別姓なり」とあって、「海部」を名乗る氏族との関係性や、さらにこれまでの文献史料による研究から、尾張氏が瀬戸内海北岸や日本海側の地域、氏族との関係があるなど、海と強い関連性を持っていたことが指摘されている。これらのことから、尾張氏は、海民を支配する豪族として、大和政権下で海産物の貢納や海上輸送に携わっていたことが明らかとなってきた。 このように尾張氏の影響力が広範囲であったことが指摘される一方で、尾張氏が国造に任命される以前のごく初期の段階での勢力の本拠地がどこであったのかということは、これまで多くの研究成果が発表されているが、現在までわかっていない。今回は、尾張氏の本拠地に関して、これまでの先行研究をごく簡単に紹介しながら、それに対する私見を若干述べたい。 まず、尾張氏の本拠地に関しては、尾張国外に求める説と尾張国内に求める説の2つに大きく分けることができる。現在の研究の主流は、新井喜久夫氏の研究を基礎として、尾張国内に求める説が有力のようである。だが、尾張国外説も本居宣長を初めとして古くから提唱されている。 尾張氏に関係する史料は、それなりに存在するが、まず、その系譜を知る上で重要となるのが『先代旧事本紀』の「天孫本紀」である。これを基に新井氏が作成された線系図が以下のものである。 この系図を見ると、右半分の箇所で尾張氏が葛城と関係する人物と婚姻して妻としているケースが多くあることが分かる。また、『日本書紀』などには「高尾張邑」が葛城にあったことが示されている。こういった記載を根拠に本居宣長は尾張氏の本拠地を尾張国外の大和国葛城に推定したのである。さらに11世の乎止与(おとよ)が尾張大印岐(おおいなぎ)の女子真敷刀俾(ましきとべ)を妻にしたことと『先代旧事本紀』の「国造本紀」に乎止与が尾張国造に任じられたということから、この段階で葛城から尾張に本拠地を移したと考えたのである。 こういった記載からすれば、この尾張国外説は妥当であるように感じる。だが、この尾張国外説を採る場合、当然『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載に誤りがないということが大前提になってくる。これに関しては、新井氏がすでに詳しい研究成果を発表されている。 新井氏の指摘によれば、『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の系譜は11世の乎止与を境として前後に二分されているとする。その根拠は11世と12世がそれぞれ一人で、これは1世と2世が各一人であるのと同数になっているという点である。一般的に系図は世代をさかのぼるにつれて少なくなる。さらに10世と11世の乎止与はうまく接合されていない。ただ、『海部氏勘注系図』では10世と11世が接合しているようだが、この系図自体がこの尾張氏の系譜を基にして作成されたものだとして系図が二分される事実に変わりはないとする。現存する『海部氏勘注系図』は江戸時代前期の写本ともいわれ後世的要素を含む史料であり十分な検討が必要であろう。 確かにこのような指摘を受けて『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の系図を見ると、前半箇所には「孝昭朝大連」や「孝昭朝大臣」など、かなり誇張された表現が見受けられる。また、これらはいわゆる欠史八代に関する記述であり、そのまま史実としてすべて採用するのには問題がありそうだ。 こういった点を踏まえて、新井氏によれば、まず新しい時代の記載がある後半の箇所が作成され、その後、前半の箇所が作成されたとする。後半箇所は尾張氏が地方豪族として力を握り始めた段階で、すでにある程度伝承なりで作成されていたのであろう。 そもそもこの系図の意図は尾張氏が天照大神の孫である天火明命(あめのほあかりのみこと)に続く氏族であるという正当性を主張するところにある。したがって、天火明命から後半の系図までに時代的な整合性を図るために前半の箇所を作成したという見方が出来る。 そうした批判的な立場の視点にたって前半箇所を見た場合、漠然とした違和感のある箇所がある。それは、4世の瀛津世襲((おきつよそ)尾張連等祖)という記述である。その違和感というのは、なぜ「尾張連等祖」という記述があるにも関わらず、その続きが記されていないのかという点である。瀛津世襲(奥津余曾)は、『古事記』・『日本書紀』にも「尾張連(之遠)祖」と記述があるにも関わらず、その後の展開がないのは不自然だといえる。 この点に関して松倉文比古氏が興味深い研究を示されている。松倉氏によれば、4世の瀛津世襲の箇所に関して、まず、なぜ尾張氏の系譜なのにわざわざ「尾張連等祖」と記す必要があるのかという点と、続いて、4世の瀛津世襲は「尾張連等祖」なのに、なぜその後に系譜の展開がないのかという2点の疑問点を挙げられている。 こういった疑問点から各史料を精査していくと、この系図の前半箇所は、尾張氏の本宗の系図ではなく、尾張氏と同じ祖神天火明命に始まる多様に展開された同族氏族の系図ではないかという指摘である。また、『先代旧事本紀』の「国造本紀」には10世乎止与とあり、「天孫本紀」の記載と相違があり、おそらく本宗の系譜は「国造本紀」の示す10世乎止与とあるものが正しいのではないかとする。つまりそちらの系譜ならば乎止与とそれ以前の断絶はなく系譜が展開されているのではないかという見解を示されている。 また、松前健氏によれば系図にある葛城と関係するような記載についても、葛城に尾張氏の出先機関があったのだが、その設置の時期がかなり古かったため、その由来が不明となり、逆に大和の方が本家であるようなことになったのではないかという見解も示されている。 以上のように見ると『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に記された尾張氏の系図の特に前半の箇所は、ある程度、伝承等に依拠はしているであろうが、全体的に見れば、等閑な作成がなされた印象が残る。では、そもそも、なぜこのように前半と後半で分断している系図が『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に記されたのであろうか。この点に関しては、すでに多くの研究から以下のような指摘がされている。 物部氏の祖神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)であるが『古事記』・『日本書紀』の伝承では、曖昧な位置づけで、天孫にはじまる氏としての位置づけがなされていない。そこで、物部氏(石上氏)は、『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に自身の系譜と天孫にはじまる尾張氏の系譜をのせ、さらに饒速日命と天火明命を同一神とすることによって物部氏も天孫にはじまる氏であるという工作をしたのである。 さらに松倉氏によれば、『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に記された尾張氏の系譜は、上記のような経緯があるため、物部氏から見れば尾張氏の系譜は必要性が低く、詳しい調査がなされぬ状態で掲載されたため尾張氏の本宗の系譜が記されずに、同族氏族の系譜がそのまま使用されたのだろうと結論づけた。実際に尾張氏の本宗の系譜が存在するかは、現存史料からは確認されていないが、いずれにせよ『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に記された特に前半箇所の尾張氏の系譜の妥当性は問題となろう。 こういった点を踏まえると、尾張氏の本拠地は『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に依拠している尾張国外よりも尾張国内とした方が妥当性があるといえよう。 では、尾張氏の本拠地を尾張国内に求めた場合それがどこになるかというのが次に問題となる。その場合、文献史料から尾張氏の様子を探ることが重要となる。 まず、『古事記』・『日本書紀』からその様子を探すことになるが、その多くは皇族との婚姻関係を示す内容である。ただ、その中でも継体天皇の元妃とある目子媛((めのこひめ)色部)以外の記載は史実とは認められていないものである。その他には允恭天皇の従者として仕えた尾張連吾襲(おわりのむらじあそ)の記載がある。以上の『古事記』・『日本書紀』に記載のある人物の中には先ほどの系図に記されている者もいる。しかし、尾張氏にとって重要な人物であるはずの宮簀媛((みやずひめ)日本武尊の妃)と時代的に省略されている目子媛は系図に記載されていない(ただし、『尾張国熱田太神宮縁起』では、宮簀媛の父が乎止与命、母が真敷刀婢命(ましきとべのみこと)で、建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹とある)。しかし、尾張連吾襲に関しては、新井氏の指摘によれば、系図の16世で「允恭天皇の御世、寵臣として供奉す」とある尾治坂合(おわりのさかあい)もしくは、その弟で名が似ている尾治阿古(あこ)のどちらかに該当する可能性があるとしている。したがって、こういった記述から尾張氏は5世紀の中頃には大和政権との強いつながりが認められそうである。 また、上記のように系図に記載はないが、目子媛は継体天皇の妃として安閑天皇と宣化天皇を生んでいる。つまり、6世紀の前半に尾張氏は外戚としての地位を得てその影響力が最大となったといえる。 こういった状況を踏まえ、6世紀前半に築造された断夫山古墳(だんぷさんこふん)の被葬者を目子媛の父、尾張連草香(くさか)か目子媛自身に推定する説もある。確かに、当時の尾張氏の勢力から考えれば、同時期において全国でも有数の規模を誇る断夫山古墳の被葬者を上記の二人に推定する可能性は十分にあるといえる。 また、断夫山古墳の築造後に熱田神宮や元興寺が建立されたことを考えると、6世紀以降、熱田に尾張氏の本拠地があったということが出来る。この点に関しては、異論はないと思われる。つまり、尾張氏の本拠地を考える場合、それ以前の状況を考えなければいけないといえる。 最近の研究の傾向としては、史学的な領域を中心にアプローチを試みる新井氏が尾張氏と海部の関係を重視して地理的関係から、その本拠地を名古屋の南部地域の特に熱田、瑞穂、笠寺台地から大高の地点に重点を置く。 一方で、考古学的な領域を中心にアプローチを試みる赤塚次郎氏は、味美古墳群(あじよしこふんぐん)の築造に関わった集団が、熱田に進出して断夫山古墳の築造に関わったという見解を示し春日井・名古屋北部(尾張中部)に重点を置いている。 もちろん、これ以外にも現在の小牧市小針や志段味古墳群と尾張戸神社の名古屋市守山区にそれぞれ推定する説などもある。小針は尾張の語源の由来になったという見解もあり、『尾張志』や『尾張名所図会』などでも小針を推定地の1つに挙げている。また、守山区の志段味古墳群には白鳥塚古墳(しらとりづかこふん)が4世紀後半の前方後円墳として重要視されるなど、それぞれに有力な候補となっている。 以上のように現在でも多くの見解があるが、私自身は史学的な立場を重視して、名古屋の南部地域に推定するのが妥当ではないだろうかと考えてきた。やはり、『尾張国熱田太神宮縁起』の記述からすれば、氷上姉子神社(ひかみあねこじんじゃ)の存在が重視され、さらにそれに隣接する4世紀後半の兜山古墳(かぶとやまこふん)の存在は見逃せない。特に兜山古墳は尾張地方最古の古墳の1つで、三角縁神獣鏡(仿製(ぼうせい))が出土している。そういった点からも名古屋の南部地域が妥当ではないかと考えてきたのだが、赤塚次郎氏などの考古学的な立場も参考にすると、南部地域に限定するばかりでなく、より考古学的な視点も取り入れて多角的且つ複合的に検証する必要性があるといえる。 上記の「尾張の主要な古墳の変遷」を見ると兜山古墳周辺は、継続して古墳が築造されていない。また、『尾張国熱田太神宮縁起』の成立は鎌倉時代まで下る可能性があり、史料的価値の妥当性が問題になる。そういった点を考慮すると、大高周辺に尾張氏の本拠地を推定するのは妥当ではない。確かに、大高から瑞穂台地に展開して、八高古墳(はちこうこふん)や高田古墳などが5世紀前半に築造されたともいえるが、その関連性は不明である。 そこで、古墳時代の状況にこだわらず、もう少し時代を遡って弥生時代後期からの名古屋全域の様子を捉えてみたい。 犬塚康博氏によれば、弥生時代後期には、名古屋市の北側、守山区の西城遺跡(にししろいせき)・川東山遺跡(かわひがしやまいせき)と瀬戸市の東谷山山頂遺跡(とうごくさんさんちょういせき)、そして、名古屋市の南側、東海市のカブト山遺跡・中ノ池遺跡群と知多市の大廻間遺跡(おおはざまいせき)をそれぞれ北と南の境界領域として、それを境に内を名古屋中央部、そして、外を名古屋周縁部に区分できるとする。そして、名古屋中央部と名古屋周縁部の社会との間は緊張状態にあったと指摘している。 その後、名古屋周辺では古墳の築造が開始されるが、まず、4世紀後半に守山区の白鳥塚古墳、北区の白山藪古墳((はくさんやぶこふん)5世紀前半の可能性もある)、東海市の兜山古墳が築造される。ここで、注目されるのは、これらのすべてが名古屋周縁部の領域に築造されている点である。更に白山藪古墳では、舶載(はくさい)の三角縁神獣鏡が、兜山古墳では、仿製の三角縁神獣鏡が出土して、大和政権との繋がりが指摘され、また、白鳥塚古墳では三角縁神獣鏡の出土はないが、畿内色の強い古式の前方後円墳であり、いずれも大和政権との繋がりが考えられている。 一方、4世紀後半の名古屋中央部では、方形周溝墓群の存在が認められるが、これらからは大和政権との繋がりを示す物は確認されていない。そして、古墳が築造されるのは、「尾張の主要な古墳の変遷」からも確認できるが5世紀前半からとなる。この名古屋中央部の特に瑞穂台地で前方後円墳が築造されるようになった理由を犬塚氏は「名古屋周縁部における4世紀代の動向によって、集団間の勢力バランスに変化が生じ、名古屋中央部でも畿内的な前方後円墳の採用がうながされた」と指摘している。 おそらく尾張氏の本拠地を推定する上で、この「集団間の勢力バランスに変化」がどのように起こったのかを解明することで明らかになるように思う。 この点について、犬塚氏は名古屋中央部に渡来系の集団が登場することによって、旧来の集団と渡来系の集団の混成の社会が成立し、そういった社会の中で瑞穂台地南部の造墓活動に関わった集団が共同体の維持を拡大的に展開し、断夫山古墳を築造したという見解を示している。したがって、赤塚氏の味美古墳群の築造に関わった集団が断夫山古墳を築造したという見解には否定的である。 確かに、味美古墳群の築造に関わった集団が距離の離れた熱田の地に断夫山古墳を築造するための根拠が明確ではなく、犬塚氏の見解の方が整合性があり妥当だと思われる。ただ、ここで犬塚氏が名古屋中央部において渡来系の集団が登場したことを指摘しているが、その渡来系の集団がどのような経緯で名古屋中央部に移り住み、それによって名古屋周縁部と名古屋中央部との間で具体的にどのような勢力バランスの変化が起こったのかについては示されていない。両地域では依然として緊張状態があったのか、もしくは友好的な交流があったのかが不分明である。このあたりが解明されなければ、尾張氏の本拠地の解明には繋がらないように思う。ただ、1つの可能性を指摘するならば、4世紀末から5世紀初めに掛けて中央の大和政権下において前方後円墳の築造が奈良盆地から河内へと移動する現象が起こる。この現象から政権中枢の権力移動があったのではないかと指摘されている。それに伴い全国の多くの地域でも古墳の築造に変化が見られる。確かに、この地方においても「尾張の主要な古墳の変遷」を確認すると4世紀末から5世紀初めに掛けて古墳の築造が停止されている地域を指摘できる。このような大和政権の権力移動がこの地域にも波及して新たな渡来系の集団が登場したことによって「集団間の勢力バランスに変化」が生じたとも考えられる。 しかし、何れにせよ推測の域であり、まずは、犬塚氏が指摘した名古屋周縁部にいち早く大和政権との繋がりを示す古墳が築造されたという点を重要視する必要があるように思う。 この点に注目すると、名古屋周縁部の北側の白鳥塚古墳を中心とした志段味古墳群、白山藪古墳を中心とした味美古墳群、そして、それらに隣接する守山白山(神社)古墳(4世紀後半~5世紀前半)を中心とした小幡古墳群はいずれも庄内川流域に築造されている。このように4世紀後半の尾張中部では特にこの庄内川を中心として古墳が築造されている印象が強い。 この先は推論になるが、おそらく尾張氏は名古屋周縁部の庄内川流域を掌握し、海部として伊勢湾までの範囲で、お互いに連携し合っていた複合的な集団ではないだろうか。その複合的な集団が大和政権下の権力の移動などの何らかの理由によって、この地域に「集団間の勢力バランスに変化」が生じて、名古屋周縁部の複合的な集団が新たな渡来人の登場と共に、名古屋中央部へと向かう小幡地域に進出して、さらに瑞穂台地に展開し、交通の要所となる熱田の地に尾張の統一事業として、断夫山古墳を築造したと見ることは出来ないだろうか。さらにこの複合的な集団で主導的立場にあったのは、ある一定の地域で古墳を築造し続けた味美古墳群の集団ではなく、4世紀末ごろに一旦、古墳の築造を停止した志段味古墳群の集団ではないだろうか。古墳の築造を停止した理由は上記のように、権力の移動などによって「集団間の勢力バランスに変化」が生じたことによる名古屋中央部への流入と考える。 志段味古墳群の白鳥塚古墳は前方後円墳でその規模からしても主導的立場にあったのにふさわしい。また、尾張氏の祖神を祀る尾張戸神社の存在も重要となろう。ただ、ここで尾張戸神社の「尾張戸」の「戸」については検討が必要になる。この点に関しては、深谷淳氏の指摘によれば、「尾張戸」は尾張氏の管理、支配下にあった渡来系を含む人々であったとされている。つまり、尾張戸神社は「尾張戸(尾治戸)」の氏神であった可能性がある。したがって、直接的か間接的かという疑問は残るが、志段味古墳群の地域は一応、尾張氏の影響を指摘できそうである。ただ、この「戸」についてはすぐに結論の出る問題ではなく今後も検討が必要である。 また、志段味古墳群では5世紀末から帆立貝式古墳の築造が再開される。これは、この時期すでに熱田で尾張の支配権を握った尾張氏の一部が志段味古墳群の地域に戻ったか、一時勢力を失った尾張氏の傍流が復権したかによって、古墳の築造を再開したが、熱田への配慮、もしくは制限により前方後円墳ではなく、帆立貝式古墳にならざるをえなかったといえるのではないであろうか。この志段味古墳群の勝手塚古墳と断夫山古墳では共に猿投型円筒埴輪を採用しており関連性は指摘できる。また、犬塚氏は断夫山古墳で出土した「子持高杯」が小幡の池下古墳で出土した脚付連結蓋杯との類似性を指摘している。これらから志段味から小幡、そして瑞穂、熱田への方向性が導けるのではないだろうか。 このように尾張氏が尾張中部から尾張南部へ支配力が及ぶ一方で、同時に尾張北部へも支配力を強めていたと見られる。 『日本書紀』の安閑天皇2年(535)5月に全国に屯倉(みやけ)を置いたという記載があり、「尾張国の間敷屯倉(ましきのみやけ)・入鹿屯倉(いるか)」とある。その翌年の宣化天皇元年(536)五月には、「蘇我大臣稲目宿祢(いなめのすくね)は、尾張連を遣して、尾張国の屯倉の穀(もみ)を運ばしむべし」とあり、この屯倉は上記の「間敷屯倉・入鹿屯倉」と思われる。このうち「入鹿屯倉」は現在の犬山市の入鹿池あたりに設置されていたとみられ、邇波県(にわのあがた)の地域にあたる。また、尾張氏の系譜に建稲種が邇波県君祖大荒田の女子玉姫を妻としたとあり、これらから少なくとも6世紀前半以前には尾張氏は尾張北部まで掌握していたと推定できる。犬山市にある4世紀後半の東之宮古墳(ひがしのみやこふん)は邇波県主が被葬者と思われる。 また、「間敷屯倉」については春部郡・中島郡・海部郡などに設置されたとする見解もあるが、詳細は不明である。ただ、尾張氏の系譜に乎止与が尾張大印岐の女子真敷刀俾を妻にしたとあり、この「真敷」と「間敷」との関連性は指摘できる。 以上のように、庄内川流域を掌握したグループの特に志段味古墳群の集団が尾張南部と尾張北部へと展開したとみたい。 今回、尾張氏の本拠地に関して、これまでの先行研究をごく簡単に紹介しながら、それに対する私見を若干述べたが、まだ主要な文献でも目を通していないものも多い。特に尾張氏を論じるには、中央、地方の豪族間のそれぞれの神話を含めた関係、さらには氏姓制度や部民制における「部」もしくは「戸」と氏族との関連性についてなど幅広い見識が必要であると感じる。いずれにせよ中途半端な姿勢では何かを示すということは難しい。 したがって、今回記した私見に関しては、文献からの根拠を見いだせないばかりでなく、考古学に対する理解においては基礎的な面から不足しており、価値のある提示が出来たとは言い難いが、何かの際に下記の参考文献などが参考になれば幸いである。下記にある参考文献以外にも数多く参照するべきものはあるが、特に古代史においては、他時代と比較すれば史料の数が少なく、多角的な検証が難しいため史料や参考文献の扱いは特に慎重にならなければいけないであろう。そうした制約の中で史学的な領域においては、新井喜久夫氏が多くの研究成果を残されている。しかし、その研究も新井氏の1969年に発表した「古代の尾張氏について上下」『信濃』が基礎となっており、その後大きな進展が見られていないのが現状である。言い換えれば、史学的な見解だけでは、尾張氏の本拠地を求めることは難しいといえる。そうした中で考古学の領域の成果に期待したいのだが、今後の研究成果によって新たな考古学資料などの発見により古墳の築造年代などを含め、これまでの研究成果が大幅に変わる可能性もある。現時点においても徐々に変わりつつある。そのような現状においては、不分明な要素も多く考古学をもっても決定的なことは解明されているとはいえない。 今後の研究成果に期待すると共に、特に尾張氏との関連が指摘される断夫山古墳の本格的な調査がされることを望みたい。 また今回、最後に疑問が生じたので記しておきたい。 犬塚氏が指摘した「集団間の勢力バランスに変化」によって名古屋中央部が名古屋周縁部からの流入が無いということになると、5世紀の前半に瑞穂台地で古墳の築造が始まったのは、突如として登場した渡来系の集団の影響なのであろうか。その場合、その集団は尾張国外より来たのであろうか。もし、その古墳の築造の主体が渡来系の集団であり尾張国外より来たのであれば、尾張氏はその渡来人となるのか。 いずれにせよ謎は深まるばかりであるが、今後、歴史学と考古学の有益な論議の中で新たな見解が示されるのを見守りたい。 参考文献 『尾張国熱田太神宮縁起』 『古事記』 『日本書紀』 『先代旧事本紀』 『延喜式神名帳』 『和名類聚抄郡郷里駅名考証』 赤塚次郎「尾張氏と断夫山古墳」『継体王朝の謎』1995年 網野義彦 門脇禎二 森浩一『継体大王と尾張の目子媛』1994年 新井喜久夫「古代の尾張氏について上下」『信濃』第21巻第1号・第2号1969年 新井喜久夫「律令国家以前の名古屋地方」『新修名古屋市史』第1巻1997年 犬塚康博「古墳時代」『新修名古屋市史』第1巻1997年 上遠野浩一「尾張氏系譜に関する若干の考察」『日本書紀研究』第23冊1998年 岸俊男「日本における「戸」の源流」『日本古代籍帳の研究』1973年 都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』2011年 名古屋市博物館『尾張氏☆志段味古墳群をときあかす』2012年 原武史 吉田裕『岩波 天皇・皇室辞典』2005年 日下英之『熱田 歴史散歩』1999年 松倉文比古「尾張氏系譜について」『龍谷大学論集』第434・435号1989年 松前健「尾張氏の系譜と天照御魂神」『日本書紀研究』第5冊1970年 水谷千秋「尾張氏の研究」『歴史読本』2005年 溝口睦子『アマテラスの誕生-古代王権の源流を探る』2009年 三渡俊一郎「古代尾張の本拠と古墳」『熱田風土記』第八1982年 三渡俊一郎『熱田区の歴史』2006年 米田雄介『歴代天皇年号事典』2003年
by nitibotuM
| 2015-05-13 18:51
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